VERBA VORANT, SCRIPTA MANENT.
その時、あの人の口からはこんな言葉がこぼれ出た。
「───そのままで、いいんだ」
そんな優しい言葉を言われたの。
そのままで……いいんだ。
心の隙間、そっと埋めるように───
君が望む永遠サイドストーリー
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坂本真綾
「そのままでいいんだ」
──電話が、鳴っている。
私には分かっている。その電話が何を伝えてくるのか。その電話の向こうに、何が待っているのか。その全てを、私は知っている。
この電話を取った瞬間に、無邪気だった私の少女時代は終わりを告げる。この日を境に、無条件に平等な幸せを信じていた心は、遙か手の届かぬ断絶の向こうに過ぎ去ってしまう。
その全てを知りながら、私は疑いの無い笑顔で──鳴海さんからの電話である事を示す着信音に駆け寄りさえして──その受話器を、上げてしまう。
もうやめて……その電話に出ないで……!
「あ、お兄ちゃん、どうしたの? デートはどーしちゃったのさぁ?」
「あ……茜ちゃ…………が……」
「え、なになに? 聞こえないよお、もっと大きな声で言ってよ」
あの日の自分の、あまりに幼く残酷な台詞を呪う。
だがどれだけ自分を呪おうと、自らの言葉が紡ぐ罪を背負うかのように、私がこの瞬間から開放されることは、ない。
「……るか、が…………はるかがぁ……っ!」
──暗転。
暗闇の中、不気味に灯る「手術中」の赤い光に、ただ一人うずくまる鳴海さんだけが照らされている。
「すみませんでしたっっ! 俺のせいで遙は……遙はっ!」
「お、お兄ちゃん……」
「すみませんすみませんすみません…………」
「お兄ちゃん……もうやめてよおっ!」
いくら叫んでも届かない私の声。私の言葉など存在しなかったかのように、鳴海さんがあさっての方向に顔を振り上げる。
その瞬間、暗闇に一つの扉が勢いよく開き、一台のストレッチャーが駆け出てきた。
頬にはガーゼ、頭には包帯が巻かれたまま、静かに眠っているようなその姿。あまりに静か過ぎて、とても生きているとは思えない、その姿──
お姉ちゃん……っ!
───悲しいコトがあっても 爪先に押し込めるように
スニーカーきつく結んだ
『──ご乗車お疲れ様でした、まもなく欅町、欅町に到着いたします』
身体にゆっくりと慣性が掛かり、意識がはっきりしてくる。もうすっかり聴き慣れたアナウンスと共に、私はふっと目を覚ました。
……嫌な夢。
お姉ちゃんが事故に遭った日の記憶。それだけでも辛いのに、さらにお兄ちゃんが責任を全部背負ってうずくまっている姿が、まぶたの裏に改めて焼き直されてしまう。
あれから一ヶ月。お兄ちゃんをこんなに悲しませて……それでもお姉ちゃんは目を覚まさない。お兄ちゃんの姿を見るたびに、私は自分の幼さが、何も出来ない自分が悔しくてたまらない。
変わらなきゃ……今は私がもっと大人になって、お兄ちゃんを元気付けないと……。
軽く首を振って、悲しい記憶を振り払う。
緩みかけた靴紐を固く締めなおし、練習用のバッグを急いでつかみ、私は欅町に降り立った。吹き抜ける風が、ようやく残暑のかけらを押し流してゆく。
大丈夫。お姉ちゃんはきっとすぐに目を覚ます。
その時にはお兄ちゃんがいて、私がいて、水月先輩がいて……また楽しい時間が、きっと戻ってくる。だから、その時のためにも、お兄ちゃんは元気にしてないと……駄目なの。お姉ちゃんだって、大好きな人にはずっと笑ってて欲しいはず。
それにあの事故は、絶対お兄ちゃんのせいなんかじゃないんだから──
ふと、目の前に現れた鉄の扉に私は手をついた。
病室にお見舞いに向かうはずの私の足は、いつの間にか屋上へと向いていた。
ああ……そうだ。この扉の向こうには、お兄ちゃんがいるんだっけ。
もう何度も見る光景。お兄ちゃんは、金網の向こうを一人静かに眺めている。その顔を見なくても、私には分かっている。その目が今日もまた、赤く腫れてることを。
「お兄ちゃん、ここにいたんだ」
分かりきった台詞を紡ぎながら、私は思う。
お姉ちゃんが悲しむから、お兄ちゃんを元気付けなきゃ、って。
「今日も学校サボったでしょう? 駄目だよ、ちゃんとお勉強しないと大学行けなくなっちゃうよ? そうなったら、お姉ちゃんが可哀想だよ」
でも……違う。もう分かってる。お姉ちゃんのためだなんて、そんな偽善ったらしい気持ちでいたから……駄目なんだ。
「お姉ちゃんあんなに幸せそうな顔してたのに、駄目だったら泣いちゃうよ、きっと。一緒に白陵大に行くって約束したんでしょう?」
違う……違うの。
私がこうしているのは、お兄ちゃんが笑ってないと私が辛いからなの……!
「ごめん、遙……」
違う、私が聞きたいのはそんな台詞じゃない!
自分とお兄ちゃんの両方に苛立ちを感じながら、それでも私は分かっている。気づいて、いるんだ。
そう、自分の気持ちを隠したままで、お兄ちゃんが笑ってくれるはずがないと、「今」なら分かっているのに──
───誰かの前髪 真似したり 見えない未来におびえながら
──悪夢はそこで覚める。
また、あの頃の夢だ。
首筋をぐっしょりと濡らした嫌な汗を拭い、私は気だるい身体を引き起こす。本当はシャワーを浴びていきたかったけど、ちらりと見た時計はそんな余裕をあっさりと打ち消した。
「練習……いかなきゃ」
冷たい水で顔を引き締め、身支度を整える。
水月先輩にあやかりたくて、ちょっと前髪を真似してみた。もちろん、髪型なんか変えても速く泳げるわけじゃない。だけど、自分があの人の後輩なんだ、ってことを胸に刻み込んでおきたいんだ。
玄関を一歩出れば、五月蝿いセミの声、まとわりつくような空気。夏が好きだったけど……今は嫌い。あの事故のあった夏を、思い出させるから。
あれから、お姉ちゃんは病院のベッドで眠りについたまま。お兄ちゃんは大学受験を諦め、水月先輩は、実業団入りを棒に振った。
お姉ちゃんが目覚めれば、全てが元通りになる──そんな私の夢をあざ笑うかのように、全てはもう戻れない線をあっさりと踏み越えていた。
もしかしてお姉ちゃんはもう目覚めないのかもしれない。あの楽しい時間は、もう二度と戻らないんじゃないか……そんな気持ちにさえなってくる。
見えない、未来。
気持ちが下向きになりかけて、慌てて私は首を振った。ううん、そんなこと、ないよね。それに私だけでもがんばらなきゃ。
私ががんばっていれば、全てが元通りになる。幸せな時間が帰ってくる。その日を信じて、その夢だけを支えにして、私は今日も白陵柊で泳ぎ続けるんだ。
──そんな私の想いが、いかに脆いものだったか。
そんな無邪気な幸せは、あの夏の電話を受けたときに消え去っていたことを、この時の私はまだ理解していなかった。
だから、どんなに抗っても、私の足は進み続ける。
(速瀬水月なんて、どうせ今頃男と腕組んで歩いてるんじゃないの〜?)
どんなに耳をふさいでも、目を硬く閉じて歩いていても、噂の根源を突き付けられてしまう。
(あの娘、今や水泳辞めて男と同棲中だってさ。入れ込んでるわね〜)
その街角を曲がれば。
全てを否定したくて、二人を信じ続けようと願い続けたその向こうからは。
『ねぇ孝之、これから買い物付き合ってよ〜。冬物とか揃えないといけないしね』
雑踏のざわめきの中でもはっきりと分かる、水月先輩の幸せそうな声が聞こえてくる。耳慣れた声、大好きだった声が、今ハンマーのように私の頭を打ちつけている。
『しょーがねーなぁ水月……オマエがウチに置いとく分も買っとけよ?』
病院にも来ないで、お見舞いも辞めて、大学を諦めて、水泳すら辞めて、先輩の選んだ道。私の目に映った、二人で幸せそうに腕を組んでるその姿。私の耳に届く、二人で幸せそうに過ごしている世界が、水月先輩の、答え……?
「カップル……同棲……噂、本当、だったんだ」
……駄目。ここであの二人を憎んでも、何も変わらない。
(どうして……どうしてなんですか!?)
信じてた二人を恨むことなんて、自分が動けなかったのを誤魔化すことでしかない。それは痛みを憎しみに変えているだけなのに。「今」の私はそうわかっているのに。
(私はこんなに頑張ってきたのに)
憎んでしまったら、もう前を向いて泳ぐことなんてできないのに。
(私はお兄ちゃんに笑って欲しくて、水月先輩みたいになりたくて……頑張ったのに)
なのに、あの時の私は、砕けた心が黒く染まっていくのを止められないでいる──
(どうしてあなただけが……全てを投げ打って……許されない相手なのに!)
──視界がゆがみ、足元が大きく揺れ始める。
今思えばこの時だった。
私が鳴海さんをどんなに好きだったか、やっと理解できた瞬間。そして皮肉にも、自分に決定的な嘘をつき続けていくことになる瞬間だった──
私はあの人たちを許さない。
姉さんは知らないんだ。
鳴海さんがあの人と付き合っていること。
姉さんは……捨てられたんだってこと。
私はその全てを、
何もかも知ってしまっているんだ。
姉さんの目が覚めたからって、
今更恋人、親友気取りで病院に来るなんて……
私、絶対に許さないんだから!
───何もかも知ってると 日記に書いた
[2001-08-09 23:04]
──暗闇の中で私は目を覚ました。
頭が、身体中が、ぼおっと熱を持ったように重い。しばらく何も考えられず、私は静かに、ただ目が暗がりに慣れてゆくのに任せていた。
夢見が、悪かった。
あの頃の、三年前の、二年前の、夢。こんなに続けて悪夢を見たおかげで、今もまだ自分が夢の中にいる気がして、少し怖くなる。
やがて眼がようやく暗さに慣れ、視界に見慣れた病院の天井を映し出す。
自分の居場所が分かった安堵と、頭の芯を貫く重い痛みと、額に載せられたひんやりとしたタオルの感触。その全てが確かな現実感を私に伝えてくれるのだけど、それでも熱のせいか、夢見てるような感覚は抜けきらない。
でも、冷たいタオルの裏側の、小さな脳味噌の一角は、これが現実であることを冷静に指摘する。
そう、今日私は勝つと決めてた大会で、情けなくも負けたんだ。あの人の世界であった水泳で、未来を、この世界を捨てたあの人よりも、私の方が正しかったことを証明するはずだった、その大会での敗北。おまけに鳴海さんにまで、その姿を見られてしまった──
(でも鳴海さん……かっこよかったって、そう言ってくれてたな……)
何気なく湧いた思考が、弱気になった意識に滑り込んでくる。それを追い出すのすら億劫だった。
ま、朝から身体が重かったし、体調で言い訳なんてしたくなかったけど、これは明らかに風邪だよね。大会の後、病院に来たところまでは記憶にあるんだけど……。それにしてもお見舞いに来て倒れるなんて、洒落にもなってない。
もう一度目を閉じる。
取りとめも無い思考は、やがて姉さんを捨てた鳴海さん。鳴海さんを奪ったあの人にたどり着く。
あの人たちは間違ってる、そう信じてやってきた。私は姉さんを看続け、泳ぎ続けることで自分が正しかったと、信じていたかった。
でも、結局は思いっきり夢の中に出ちゃってる。
姉さんのことを口にしながらも、私は鳴海さんが一番心配だったってこと。あの人が鳴海さんを助けてくれて……何処かホッとしてて、そして物凄く悔しいと思ってるってこと。
それでも、私が心を落ち着けられるのは、姉さんの隣にいる鳴海さんだけ。だから、あの人といる鳴海さんを憎んでいなければ、私の心は何処にも行けない。だけど、好きな人を憎んで生きていくのは、もう心が持たない……。
憎んでも、憎まなくても、私の心は──
『はる……か……』
え?
突然聞こえてきた声に、私は目をあけて意識を部屋の中に引き戻した。
そこにいたのは、鳴海さんその人。
寝かされている私の隣に座ったまま、私の手を握って眠っていた。意識はぼんやりしてたし、握っている手の感触があまりに自然だったから、今までそこにいることに気づいていなかったんだ。
──そっか、鳴海さん、付き添っててくれたんだ。
『お願い、だから……何か……言ってくれよ……』
久しく聞いてなかった弱々しい鳴海さんの声と共に、私の手を握る力が手の甲に痛みを感じるほどに強くなる。私はそれでも、重なった手をそのままにしておいた。
鳴海さん、もしかして……ううん、やっぱり……姉さんのこと……?
『遙……はる、か…………』
再び聞こえてきた姉さんの名前、その響きが未だに湛える悲しみの感情。……この感覚ではっきりした。これは夢なんかじゃない。
ここは、傷ついた鳴海さんのいる世界。私が再び色んなことを、知りたくない事まで知ってしまった、三年目の夏だということを──
───不意をつかれて 時がたちどまる
あふれる痛み そっとつつむように
あの夜、鳴海さんは泣いていた。姉さんの名前を、何度も何度も呼びながら。
鳴海さんはあの後目を覚まして、姉さんの夢を見てたことを話してくれた。私の寝顔が姉さんのそれに重なった……みたい。その後も結局、一晩中私の枕元に付き添ってくれていた。一晩中、私の手を優しく握ってくれながら。
一晩中看ててくれた鳴海さん。
途中までわざわざ送ってくれた鳴海さん。
おまけに最後には、無理をして病院に戻って風邪をぶり返してしまった私を、丁寧に、優しく包み込むように、家まで送り届けてくれたんだ。
鳴海さんってやっぱり……姉さんが好きになってから相変わらずの、優しいヒト、なんだよね……。
そして何より、明け方にまで呼んでいた姉さんの名前。繋いだ手から伝わってくる微かな震えから、鳴海さんの気持ちがほんの少しだけわかったような気がする。私が単純に憎めるほど鳴海さんの心も単純じゃない。そんな当たり前のことに気づかない振りをして来てたんだってことにも、改めて気づかされた。
憎んでも、憎まなくても、私の心は辛い。
だけど鳴海さんの心の底には、深く閉じ込められていて、それがどんな形かまでは分からないけれど、確かに姉さんの存在が今も生きてるんだ。だったら、私が心を落ち着けられたあの時に帰れるのかも……しれない。
(本当に、そう? 何か、間違ってない?)
目の前に見えた道筋。
でもそのことを本気で考えようとすると、頭の芯がズキズキと痛む。
(姉さんの隣に鳴海さん……それはニ年前の願いと、何が違うの?)
私は短くかぶりを振る。
考えるのはやめよう。そうだよ、うん、間違ってなんか、ない。
姉さんが目覚めた夏。
私はこの日初めて、もう一度鳴海さんを信じてもいいんじゃないかと心の何処かで思い始めていた。
それが繰り返される同じ過ちだと、気づくことのないままに───
───小さな両手いっぱい 私だけのこの人生
ほかの誰も 決められない
[2001-08-13 16:30]
だから。
あの日、鳴海さんが姉さんに花を贈ろうと言い出したとき、私の心の中で渦巻いていた幾つもの感情に穴があき、鳴海さんに心を開けたかに見えた。
だから。
あの日、私は鳴海さんに色んなコトを謝った。
あの日、鳴海さんが姉さんに渡すと言う花に、真っ赤な薔薇を選んであげた。
きっかけは、風邪で倒れた鳴海さんを看病してて、鳴海さんの心にまた少しだけ触れられたような気がしたことだった。あの時、直接接することで、分かることや変わるものがあるって、気づけたから。
だから。
もしもそこに想いがあれば、きっと何かが変わるんじゃないかと思った。あの花束が鳴海さんの心の奥底を開くきっかけになれたら……そう、思った。
あるいは、それは自分の心を試す賭けだったのかもしれない。私の憎しみが、鳴海さんが姉さんから離れてしまってから、私が意地になって続けてきた全てが、本当に正しかったのか、的外れだったのか。
そして姉さんのもとに歩み寄ってくれる鳴海さんを見て、自分の心がどう動くのか──私の心にとって、それは本当にギリギリの賭けだった。
だから。
その花束をあの人が、水月先輩が持ってきたのを知ったとき。変わりもしないニセモノの世界を目の当たりにしたときに。
私の心は砕けて、そして、
全てが、噴き出して、
タイセツナヒトスベテヲ、キズツケタ。
姉さんは、再び昏睡した。
全てが、私のせいで。
自分の醜いところを、全部さらしてしまった。
私が姉さんを裏切ってたこと。
決して水月先輩を責められないこと。
姉さんを、水月先輩を、
そして鳴海さんを傷つけて……
だけど私、たくさん辛い想いしてきたよ?
どうして……どうしてこんなに辛いんですか?
「私がしたのは……鳴海さんを
好きになったことだけじゃないですか!」
[2001-08-17 08:02]
「──そうですね。今はすごく正常な状態で安定しています。ひとまず、ご安心くださいとお伝えして良いかと思いますわ」
早朝の医局。
香月先生の徹夜の疲れは私にも見えるほどだけど、それでもその真剣な目付きと確かな言葉は、間違いなく姉さんを護り続けてきた先生そのものだった。でも、そのしっかりとした先生の言葉も、私の心を落ち着かせることはできなかった。
願い続けていたはずのただ一つの事実が、私の意識野をかき乱し続けていたから。
姉さんが再び目を覚ましたという、事実が。
今や誤魔化す必要の無い──ううん、違う。もう誤魔化せない、現実がここにある。
(姉さんは三年という時間をどう受け止めるんだろう。鳴海さんはどうするの? 水月先輩は? 私の気持ちは何処へ向かえばいいんだろう?)
延々と、終わりの見えない思考が巡り続ける。
そして何より、姉さんが目覚めたこと、そしてもう意識を失うことがないと分かったのに、全てを心から喜んでいない自分が悲しかった。昨日鳴海さんに「忘れてください」なんて言っておきながら、結局自分のことを考えているのが凄く嫌だった。
ふと気が付くと、お父さんと先生の会話は終わろうとしていた。お父さんたちと一緒に、私も慌てて椅子から立ち上がる。
「……それでは、私どもはこれで一旦失礼いたします。娘を……遙を、本当にありがとうございました。先生もどうかお休みになってください」
「ご配慮痛み入ります。検査の詳しい結果はまた後日お伝えいたしますので……」
そう言って医局を後にしたお父さんたちに、私も一歩遅れて続こうとしたその瞬間、途端に真剣な口調の抜け落ちた、香月先生の眠そうな声が後ろから私を呼び止めた。
「あ、茜さん? ちょっといいかしら」
「……はい、なんでしょうか?」
「涼宮さんね、落ち着いて眠ってる朝のうちに前の病室の方に移しておくわ。ごめんなさいね、一般病棟が混んでるからまた特別病棟なのよ」
そのことはお父さんたちの話の流れからなんとなく分かっていた。でも、どうしてそれをわざわざ私だけに言うんだろう?
「ええ、えっと、それで……」
疑念を浮かべた私の顔に、香月先生は明快な答えを用意していた。
「だから、ご家族の方以外もお見舞いに連れてきてもいいわよ。鳴海君辺り心配してそうだし、あなたの方から伝えてあげるといいんじゃないかしら」
「……っ!」
全てを見透かしていそうな香月先生の瞳から、私は思わず視線を逸らした。
そうだった、今まで気づかない振りをしてたけど、鳴海さんにこのことを伝えるのは、私なんだ……。
「分かりました、鳴海さんには連絡を取ってみます。それでは……」
視線を俯かせたまま、かろうじて絞り出した自分声がリノリウムの床に空しく落ちてゆく。乾いた声の反響を背に歩み去ろうとした私に、先生は再び声を掛けてきた。さっきの眠気など微塵も感じられない、言葉を。
「茜さん、三年間本当に頑張ってくれたわね。医者として、あなたが彼女のそばにいてくれたこと、本当に感謝してるわ」
それは自分の意地に過ぎなかったと分かっているから……素直には喜べない。でも、姉さんの身体と共に私の感情を長い間見てきた先生が、私のそんな面に気づいてないわけはないと思うんだけど……?
そんな私の疑念は、続けて発せられた先生の言葉にまたしても明快に振り切られた。
「だから……もうそろそろ、自分のことを考えても良い頃よ」
「…………!」
「まだ若いんだから、傷ついた心は時が癒してくれるわ。けどね、後悔は時と共に増すだけよ。そのこと、忘れないで頂戴ね」
後悔と言われ、私は思わず顔を上げ、先生にきつい視線を向けてしまう。
「後悔なら……とっくに……!」
けれど先生はそれをあっさりと受け流す。
「三年間、誰よりも頑張ってきたあなたを見ている人はちゃんといるわ。そのままのあなたの決断を……あなた自身が信じてあげなさい」
それは、思ってもいない言葉だった。
私の決断を、私が、信じる──?
「香月先生、それは……いえ、失礼します」
湧き上がった思いを抑えるように、私は香月先生に軽く一礼し、扉へと足を向けた。
「鳴海君によろしく伝えといて頂戴ね」
香月先生もまた、私の感情になど気づいていない振りをしたまま、何気ない言葉で私を見送った。
「……ありがとうございました」
──後ろ手に医局の扉を閉め、私は思わず深く息をつく。
そんなこと、分かってる。もう誰も傷つかないなんて不可能なこと。後悔はしたくないというこの気持ち。分かってるけど……信じたくはない。姉さんを傷つけたくないという思いが、ただの臆病かもしれないなんて……。
そのままの私の、決断。
それは……何処に向かえばいいんだろう?
───氷の心がすれちがう
街に生きている ふるえながら
『ただいま留守にしております。ピーっと鳴ったら、お名前、ご用件をお話ください』
「……姉さんの意識が戻ったのでそれを伝えたくて連絡しました。……鳴海さんに会いたがっています。それだけです」
鳴海さん本人が出なかったことに少しホッとしながら、同時に空回りした決意をもてあます。とりあえず留守電にそれだけ伝えると、鳴海さんに会ってしまわないように病院を出た。
心が、すれ違う。
素直になりたい。後悔はしたくない。だけど自分のしてきたことを考えれば……許してもらえるわけがない。鳴海さんを誤解して、先輩を憎んできた三年間。姉さんのためと言いながら、結局鳴海さんの心を邪魔してきた二週間。先輩を、姉さんを傷つけてきた、この夏。
その全てが、怖い。
家には部活に出るなんて言って出てきたけど、もう泳ぐ理由が、見つからない。
頭の中を駆け巡る思いを殺しながら、何処かへ逃げ出したくなる気持ちを抑えながら、私は家へと足を速めていた。
こうして街を歩いているだけでも、怖い。
誰かに会うだけで、自分の醜さを晒してしまうような気がしてしまう。
鳴海さんに会ってしまったらどうしよう。本当はずっと隣にいたいだなんて。
水月先輩に会ってしまったらどうしよう。先輩を悪く言う資格なんてなかったのに。
私の泳ぐ理由はどこへ行ったんだろう。仲間やコーチが聞いたらあきれるだろうか。
私は、これからの姉さんと鳴海さんを、笑ってみていられるんだろうか……?
でも、私は逃げられない。
私は姉さんの妹として、姉さんの前から姿を消すことなんて、できない。
それでも私は……鳴海さんが、好きなの……!
限界はすぐに来た。
ある日の病室で、姉さんと鳴海さんの時間に居合わせてしまった私。まるで三年前を思わせる、姉さんと鳴海さんの自然な会話に、お姫様だっこのおまけつき。
……そんな自分が心を落ち着けられるはずだった二人の幸せそうなやり取りは、普通に笑っていようとした私の瞳から、無意識のうちに涙を溢れさせていた。
いつかは来ることだとわかってた。でも心の準備なんてできているわけが無い。……私はすぐに逃げだした。姉さんの病室から、その場から、鳴海さんからすら逃げ出したかった。
気が付けば、そこは病院の屋上。
傾いた夏の赤い光が、干されたシーツの隙間から低く私の目を射抜く。磯の香りを運ぶ涼しい風。フェンスとシーツに囲まれた、小さな茜色の世界。
三年前、この場所でうつむいていた鳴海さんを励まそうとしてたのを思い出した。
今なら、鳴海さんがこの場所によく来てた理由がなんとなくわかる。風の音とはためくシーツ、単調に繰り返される潮の音、海を渡る光の揺らめきが、乱れた心をほんのひと時だけかき消してくれるから。
かろうじて凪いでゆく思考。
そして分からないのは、鳴海さんの気持ち。
自分の想いを悩み、伝えるのに精一杯だった……けれど、違う。考えてなかったわけじゃない。気づかない振りをして来ただけ。
鳴海さんと水月先輩がうまく行ってないことも。それが姉さんのせいだけじゃない、私のせいでもあることも。鳴海さんが私に優しくしてくれるということが、どういうことなのかも……。
だけど、さっきの姉さんと鳴海さんを見ていると、また分からなくなる。
分からない。分からない。
私は鳴海さんにどうして欲しいんだろう、姉さんの隣にいて欲しいのか、それとも私に振り向いて欲しいのか。私は何を考えているんだろう、鳴海さんが私を好きになってくれるなんて勘違いなのか、このままだと姉さんを裏切って鳴海さんを振り向かせてしまうのが怖いのか。
怖いのか、自惚れてるのか……。
自分の想いさえも、分からない……!
ただ一つ確かなことは。
今この時だけでもいいから、鳴海さんの腕の中に包まれたいということだけ。
そう願ったその瞬間──重い鉄の音が凪いだ世界を切り開き、鳴海さんが私の後ろに立っていた。
忘れたい。忘れたくない。忘れられない。
傷つけたくない。傷ついても。傷つけても。
涙と共に病室を飛び出してきた私を追いかけて来てくれた。姉さんを、置いてまで。そんなずるい不意打ちに私の心はまた大きく揺れて、自分の身勝手な想いを、矛盾した心を、全て鳴海さんにぶつけてしまった。
「ずるいよ……こんなのないですよ」
「だけど……こうしないと届かないだろ?」
もう嫌われても良かった。なのに、鳴海さんは私の背中にそっと両手を回し、私は吸い寄せられるようにその腕の中に身体の重みを預けていた。
これは、叶えられる想いなの?
それとも、叶わない想いなの?
この人の腕の中でぐるぐると回る私の心。その時……あの言葉を、聞いたんだ。
何気ない言葉だった。
私を落ち着かせようと、適当に選んだ言葉なのかもしれなかった。
……本当のことは分からない。だけど、その時鳴海さんの口から聞こえた言葉は、私の心を強く、強く叩いた。
長い沈黙の後、鳴海さんは、こう言ったんだ。
「茜ちゃんは」
「もっと我が侭になっていいんじゃないのか?」
……わがままに。自分のことを。
鳴海さんの言葉。香月先生の言葉。
──そう、わがまま、に。
ずっと怖かった 確かめ合うこと
顔色ばかり 気にしてうつむく
ずっと怯えてた 心を閉ざして
哀しく深い 傷痕なぞった
───信じたい 愛したい 誰かのことを
[2001-08-27 09:24 "The Day"]
窓を打つ激しい雨音で目が覚めた。
今日は姉さんが事故に遭って、ちょうど三年目。
全てが変わってしまった、あの日。
よりによって、こんな日に雨。自分の心を動かそうと決めた、この日に。
だけど……行かなきゃ。今日行かなければ、もう私は二度と何処にも行けなくなってしまう。何処へでも構わない。このままじゃ、自分の心に潰されてしまう。
スニーカーをきつく結び、
久しぶりの大きなバッグを手にして、
私は雨の中を走り出た。
あの日、姉さんに告白してしまった。鳴海さんを好きだってこと。姉さんが困ること、傷つくこと、分かっていながら。水月先輩ともぶつかった。自分も先輩と同じなんだって認めて、その上で子供みたいに先輩を追い詰めた。
この室内プールで。
鳴海さんに、水月先輩が水泳を辞めた本当の理由を、教えてしまった。
だけど……それだって、構わない。
鳴海さんの心が揺らぐのを、目の前で見ていながら。鳴海さんに、姉さんを見て欲しいと言いながら、その腕の中で泣くなんていう、偽善。今もこの瞬間に、私は姉さんから、水月先輩から、鳴海さんを奪おうとしているのに──
冷たい水が意識を押し包む、久しぶりの感覚。
その水の重みを、自分の力だけを信じてかき進む。
それが、泳ぐということ。
大切な人を、もう十分に傷つけた。
でも、私がしたのはいけないことなんだろうか。私は昔のような時間を信じたいだけなのに。私は大切な人を、愛してしまっただけなのに。
指先が壁に触れ、私は水面から身体を引き抜いた。
……泳げた。
私はまだ、前に進むことが出来るんだ。
そう認識した刹那、私の心は、動き始めた。
誰かを傷つけてもいい。大切な人を裏切ってもいい。
だから今は、ただ一心に……あなたに会いたい。その声が欲しい。その笑顔が恋しい。そのぬくもりが、何よりも。
想いを胸に、私は雨の中を駆け抜ける。
あの人のところへ、あの人のところへ──
三年前から、ずっとそうだった。
まるであの悪夢の中の日々のように。一番大切なときに、私は自分の心を誤魔化してきた。逆にあの人の心に近づくのを、理由をつけて拒んですらきた。それでいいんだと思ってた。
今その報いを受けるように、走れど走れど、あの人は何処にもいない。
それでも私は走り続ける。涙をこらえて、ただあの人の腕の中に抱かれたくて。
何処にもいない、あの人。
胸が冷たい。心が痛い。降りしきる雨に熱を奪われ、疲れ果てて動かない身体。
いつか来たコンクリートの地面に私は座り込んだ。
冷えてゆく身体を両腕で抱え、もう私に出来ることは、ここで鳴海さんを待つことだけ。重いまぶたを下ろしながら、私はただひたすら、想った。
信じたい。愛したい。鳴海さんの、ことを──
「そして あなたに 出会った」
「やっぱり、もうそばにいてくれないと嫌です……忘れるなんてできるわけない!」
濡れた私の身体を、強く強く抱きしめてくれる鳴海さんの腕の中。
「姉さんを傷付けても……それでもいい……」
もう、私には他のことは考えられないから。
「だから……だから……」
想いを抱えたまま、ただ傷つくことをためらっていた、幼い日々を脱ぎ捨てよう。
「好きでもいいんですよね?」
消せない想いがあなたの胸に届くように。
「好きって言ってもいいんですよね?」
好きなだけじゃ駄目なんだ。怖れずに、この人の気持ちを、この想いの行き先を確かめよう。
わがままでいいと言ってくれた、あの日の言葉に全てを賭けて。
そして──
「ああ、それでいいんだよ……それで、いいんだ」
その言葉に、全ての壁が崩れ落ちる。
冷え切った私の身体を満たす、何よりも温かい、鳴海さんのぬくもり──
心の隙間、そっと埋めるように。
『傷のない心になんて、きっと大した価値なんて無いんだと思う。
それは、何も知らないってことなんだから』
目を閉じた私の耳元で、まるで自分自身にも言い聞かせるように、
あの人が小さく言葉を紡ぐ。
『茜の中にある俺への気持ちと、遙を大切に思う心。
噛み合わない歯車みたいだけど、それでも決して矛盾なんてしてないと俺は思うんだ。だから──』
[2001-08-28 09:00]
鳴海さんの腕に包まれて、そして、目覚めた朝。
隣にあの人がいないだけで、書置きを見るまでもなく、私は全てを理解した。 鳴海さんは、鳴海さん自身の痛みに、向き合いに行ったのだということを。
辺りに響く静かな波の音。
まるでひとり潮騒に洗われているかのように、海岸で肩を震わせている鳴海さんが、そこにいた。
姉さんを傷つける最後の役目を、ただひとりで引き受けて。
「探しました……いっぱい探しました!」
その背中に身体を押し付ける。鳴海さんの震えが、私に全部伝わるように。
鳴海さんの痛みを、少しでも私の身体で包み込めるように。
「どうして、ひとりで行っちゃったんですか?」
答えの分かりきった質問を、それでもぶつけずにはいられなかった。鳴海さん一人に背負わせた悲しみを、少しでも引き受けたかった。
鳴海さんに初めて自分の想いを打ち明けたこの海岸で、私と鳴海さんは、固く抱き合って、そして、静かに泣いた。
私も、そして鳴海さんも、決して強い人間じゃないんだ。だから今は、こうしてお互いのぬくもりを確かめながら、心の痛みを受け入れるしかないんだと思う。
心に刻まれた傷。誰かにつけた傷。
その全てが怖いけれど、逃げ出したくなるけれど。
だけど、この人がいてくれるなら──
───坂道登れば あこがれの
未来とは少し 違ってたけど
[2001-09-15 10:03]
私はずっと、あの三年前のみんなの時間が、ただ戻ってくればいいんだと思ってた。あの時間は過去でありながら、私の憧れの未来だったのだから。
だけど、否応無しに季節は巡り、想いも巡る。ひとたび動いてしまった心をとどめる事なんて、誰にもできないんだ。
私は憧れの未来が叶わなくなったことを、三年間ずっと誰かのせいにしてきた。鳴海さんを奪った水月先輩の、心を揺らした鳴海さんの、事故に遭った姉さんの……。
でも、そもそもの出発点が間違ってた。
憧れの未来なんて、どこにもないんだ。誰もが自分の気持ちを抱えて、他人を傷つけながら、それでも結局は、自分の道を歩いていくしかなかったんだ。
そう、一つ一つ確認しながら、一歩ずつ。
今、私たちは坂道を登って病院に向かう。
今日は姉さんの退院の日。
──姉さんと、鳴海さんと、私。そこに先輩や平さんもいて、みんなで手を取りあって、病院を出る姉さんをお祝いする……そんな憧れの未来とは、違ったものになってしまったけれど。
それでも私たちは、今日と言う節目の日を、また一歩前に進むんだ。
───ただ何もいらないと おだやかに思えた
姉さんの待つ屋上。
例え頭が理解していても、姉さんに会うのは怖い。身体が小刻みに震えている。繋いだ手からも、かすかな震えが伝わってくる。
怖いけど、逃げ出したいけれど。
そんな私の手をそっと優しく握り返してくれる鳴海さんの手。……そう、今の私には、私を包むこの温もりの他には、何もいらないんだって思えた。
『俺への気持ちも、遙を大切に思う心も。噛み合わない歯車みたいだけど、それでも決して矛盾なんてしてないと俺は思うんだ。だから──』
あの雨の夜の、そんな言葉が耳に蘇る。
やがて二人の手が重なり、屋上への扉、重い最後の扉を、ゆっくりと開いていく。
変わろうと思ってた。
大人にならなきゃいけないんだと思ってた。
変えなきゃと思ってた。
自分の想いを殺さなきゃいけないんだと思ってた。
だけど、この人が優しく包み込んでくれる限り─
『だから、茜ちゃんは──』
『うん、私は──』
きっとそのままで、いいんだ。
CAN YOU SHARE YOUR REALITY?
本作は元々のWeb版を小説集「道は遠く夏の彼方へ」用に書き直したものを、更に今回Web版にフィードバックさせたものです。
以下にオリジナルWeb版公開時の後書きを載せておきます。
2002.07.21 Web版後書きお久しぶりの維如星です。
一月半ぶりの新作をお届けいたしました。……純二次創作じゃなく、音楽モチーフってのが救いがたいのですが(汗)。
ともあれ、図らずも茜エンドシナリオの「茜サイド版」、そして如星の「茜論」の練り直しの作品となりました。彼女が何を考え、どう迷い、そしてどう動いたか……そんな彼女の一面が皆様に伝わっていれば、私にとって望外の喜びです。
……遅筆言い訳。茜論の再構築が一つ、そして本編を追いかけることで冗長になりがちな文章で悩んだことが一つ。二次創作って、むしろ新しいシーンを作り出すほうが簡単なのだと改めて思い知らされました。
それでは、また次の作品で。
サイト公開から半年掛けて、君望で書きたいものは一通りなめて来ることが出来ました。まだ君望で書きたいものは、少なくともあと2つ。夏までには公開できるかと思いますので、ここまで気長に付き合ってくださった皆様、もうしばらくお待ちくださいませ。
こんな作品でも、御感想などいただければ幸いです。
忘れもしません。この作品はある日何気なく聞いていた坂本真綾の「そのままでいいんだ」が、あまりに鮮やかに茜の存在と重なっていることに気づいて愕然とし、その衝動をそのまま短編化したものです。
音楽モチーフの作品は「その曲を知らない人」にどれだけイメージが伝わるか不安な面もありますが、その辺りも極力考慮して書き上げてみたつもりです。逆に真綾の曲をご存知の方には、あの彼女の声色に乗せて茜シナリオの空気を思い出せていただければ、本作品は成功と言えるのでしょう。
なお旧作改訂版ではありますが、今なお御感想などいただければ飛び上がって喜びます。いやマジで。