VERBA VORANT, SCRIPTA MANENT.
あの頃は、いつも明日が来るのを待ちかねていた。
デートの前の日の夜なんて、
嬉しさのあまりなかなか寝付けずに、
明日が永遠に来ないんじゃないか、なんて心配すらしていた。
「早く眠れば、それだけ早く明日が来る」
そんな絵本の言葉を自分に言い聞かせていた。
───この白い四角い部屋で目覚めてからだろうか。
明日を待たなくなったのは。
明日を怖れさえするようになったのは。
君が望む永遠サイドストーリー
扉を、開ける。
馴染み深いはずのその行為を、私は一瞬何故か強くためらった。まるでノブを回しているのではなく、何かの引き金を引いているかのように。
それでも私の手は止まらない。
視界が、扉の向こうが、開けた。
無機質な部屋にベッドが一つだけ。そこには誰かが寝かされていて、その傍らには虚ろな目でベッドの上を見つめている人がいた。絶望という液体で満たされた白い無機質の箱───それが、扉の向こうの世界だった。なんだか、かわいそう……。
……違う。寝かされているのは私。
そして涙に腫れ、見たこともない疲れた顔を私に向けているのは……孝之君!
「いやあああああああああっっっっ!」
無意識のうちに全力でノブを引く。
見た目に似合わぬ重い音をたてて扉が閉まり、その反響が私の悲鳴と共に薄暗い回廊を震わせた。
「だからいきなり開けちゃ駄目だよって……もし心が『深み』に落ち込んだら、おねーさん帰って来れなくなっちゃうんだよっ?」
胸が早鐘のように打ち続け、その子の言葉も切れ切れにしか理解できない。脳裏には孝之君の絶望的な表情が焼き付いて離れない。
全てのこだまが壁に染み込んでしまうと、自分の鼓動以外は何も聞こえなくなる。あまりの静けさに耳が痛い。
ここは、一体、何処なの……っ?
台風一過、ってこんな空のことを言うのかな。
気持ち良いぐらい晴れ渡った夏の蒼穹。
宇宙の色を溶かし込んだ青の世界。
その色は何処か寂しげで、まるで終わり行く夏、やがて来る静かな秋を予言しているかのよう。
毎年夏の終わりは少し憂鬱に───夏休みも終わっちゃうし───なるけれど、今年だけは少し違う。この夏過ごした時間は夢のようで、その終わりに感傷を感じている暇なんてなかった。これからも続く時間のコトを想えば、ゆっくりと流れる秋もずっとずっと幸せに思えるんだから、不思議だよね。
ひとしきり空を眺めた後、強めの日焼け止めを塗ってきて良かった、と少しほっとする。今日はずっと晴れてて欲しいし、夏のワンピースは好きだけど、この弱い肌だけはどうにもならない。
実際、ここ数日でもう肌が赤くなってきちゃってる。なんだか、受験生のくせに孝之君と出歩いてばかりいる自分を、このかすかな痛みが責めているような気がしちゃう。
それにしても、水月みたいにちゃんと普通に日焼けするならまだいいんだけどなあ……。
孝之君に言わせれば「いかにもお嬢様、って感じでオレは可愛いと思うけど」なんて台詞になっちゃうし、それで私も幸せになっちゃうのは、やっぱり不思議なんだけど。
「大体なぁ遙、健康的に焼けた肌なんてのはさ、速瀬みたいな筋肉女……」
水月の投げたソフトボールが派手な音をたてて孝之君を直撃して、その台詞の続きは永遠の謎になっちゃった。最初は孝之君が不思議な声をたてる度にちょっと本気で心配してたけど、やがて私はこれが二人のコミュニケーションなんだと気づいていた。
「は、遙……それは大きな誤解だ……っ」
ふふ……なんにしても、相変わらず水月と孝之君は仲がいい。本当なら嫉妬でもしちゃいそうなものだけど、水月が相手だとそんな気にならずに見ていられる。
あ、で、でも水月、もう少し手加減してあげたほうがいいような気もするなあ……。
ちらりと駅の時計を振り返る。
───二時五分。孝之君、遅いなぁ……。
あ、でも今日はまた一つ夢が叶うんだから、これくらいの遅刻はなんでもないんだけどね。
今日のお目当て。孝之君と行く絵本作家展。
夢というには大げさすぎるかもしれないけれど、ひと月ほど前にそのポスターを見たときは、まさか自分が孝之君と一緒に行くことになるなんて思わなかった。
まだ付き合い始める前、本屋にあったポスターの前で、一緒に絵本の話ができた時。あの頃は、それだけでも夢みたいな幸せに思えた。もちろん、一緒にいけたらなぁ……って思いもしたけれど、でもすぐに、付き合ってくれても飽きられちゃったらどうしようとか、そんなことばかり考えていた。
それが今や、孝之君の方から誘ってくれるなんて。こうして自分が夢見ていた、好きな人の名前を心に浮かべながら、ちょっと待ちぼうけの女の子、なんて状況を楽しんですらいる。
ふふっ、本当に、未来に何が起こるかなんて、わからないものなんだなあ……。
今日は夜まで一緒にいられるし。どうしよう、夜はうちに寄ってもらってもいいし、それとも外でごはんを食べてくる方がいいのかな。
うーん、孝之君、早く来ないかなあ……。
ふと、夏の空気にかすかに異質な揺らぎを感じた。
不意に、何羽もの鴉が一斉に飛び去った。
その耳障りな声に、あれだけうるさかったセミの声が一瞬遠くなる。視界を横切った鴉の無数の影に夢想の泡がふと破れ、私はゆっくりと顔を上げた。
その刹那。
鴉の何倍もの耳障りな音が私の意識を貫いた。
一瞬辺りを泳いだ目が、横滑りしながら向かってくる一台の車を捉えた。
───その車が自分の目の前のガードレールに触れそうになったとき、ようやく自分が危険に晒されていることに気が付いた。
(に、逃げなきゃ……!)
鋼鉄のガードレールが、飴のようにゆっくりと捻じ切れてゆく。じれったいほどゆっくりと、ゆっくりと、車が迫ってくる。
……逃げなくちゃ。そう思って座っていたベンチに手をつこうとした。思考はものすごい速さで回転しているのに、自分の手は車と同じく、じれったいほどゆっくりとしか、動かない。
逃げなくちゃ。自分と車の間はもう一メートルもない。逃げないと、せっかく揃えた服が汚れちゃう。孝之君が来るまで、綺麗でいて欲しいのに。
───どうして、どうして身体が動かないの?
頭の中に孝之君の笑顔がちらついて、私は弾かれたように、手を前に突き出した。だって、孝之君が、もうすぐ来てくれるから……!
その手に確かに感じた、冷たい金属の感触。
そして、一切の感覚が消え失せた。
沈み行く意識の中で、取り留めのない思考が回る。
美容院に行ったの、無駄になっちゃったな……。
孝之君、遅い、なぁ……。
「おねーさんも大変だったんだね……」
「大変って……そもそもここは何処? あなたは誰?」
「んー、でも大丈夫。一応ボクはここの先輩なんだし、おねーさんの探してる扉もきっと見つかるよっ」
その女の子───男の子かも、ちょっと良く分からない───は、この雰囲気に似合わぬ妙に明るい声で、私の質問などなかったかのように笑みを返した。
曲がりくねった薄暗い回廊の一角。あちこちに無数の扉がついた薄気味の悪い空間に、私はいつの間にか彷徨いこんでいた。パニックになった私は、さっき思わず手近な扉を開けて逃げ出そうとしてしまったのだけど……結果は思い出したくも無い。
というわけで、同じくいつの間にか私の隣にいたこの子の台詞を、とりあえずは大人しく聞くことにしたのだった。
「えっと……ここが何処かっていうのは、実はボクもよく知らないんだ。ただ知っているのは、ここが色んな『時間』に繋がってる、ってコトだけ」
「時間……? え、えっと、まさか……」
私は不意に、この場所に来る直前の記憶を思い出した。この手に触れた、無慈悲な鉄の冷たさ。全ての感覚が遮断される直前の、身体が立てた不気味な軋み。それは……
「わ、私……死んじゃった……の、かな」
自分自身の言葉で身体から血の気が引いていく。一方で、あれ、死んでたら血なんて流れてないのになあ、なんて訳のわからない事も考えていた。
「え、ううん、違う違う、それはないよっ」
と、その子は大きな白い帽子を載せた首をぶんぶんと大きく振りながら答えた。
「死んじゃった人もたまに見るけどね、そーゆー人はここでお喋りなんてしないんだよ。まっすぐこの廊下を歩いていって……何処の扉も開けることなく、廊下の『果て』で天国に消えちゃうの」
「それじゃ、私は……」
「ボクもよく分からないんだけど……きっと、ちょっと普通の時間から離れちゃっただけなんだと思う。ボクも、多分そうだから……」
そこでその子は、初めて見る少し辛そうな表情を浮かべ、そしてゆっくりと歩き始めた。
「えっと、とにかくボクここ長いから。遙さんが開けたい扉とか、開けちゃ危ないのとか、あときっと……時間の流れに帰れる扉を教えてあげられると思うんだ」
訳のわからない、無茶苦茶な話だった。
だけど、それは絵本の世界にも似て、訳はわからないのに私は納得してしまう。
「要するに……どっかに出口はある、ってことなんだよね?」と、その子と歩調を合わせながら、私なりに話を整理してみた。
その子はうんうん、と大きくうなずいた。それにしても、一つ一つの動作が大げさで、ちょっと可愛い子だなあ。
「でもまぁ、扉を探すにしても、まずはおねーさん……はるかさん、か。遙さんのコトを知らないと難しいよね」
その子はそう独り言のように呟きながら、また一つの扉の前で立ち止まる。小さな仕種で、私にその見慣れたデザインの扉を開けるように促していた。
「お姉ちゃん、いないの?」
扉の向こうから聞こえてきた茜の声に、私は書き物の手を休めて部屋の戸を開けた。
「何ようるさいわね、どうしたのよ?」
「うん、お兄ちゃん連れてきた」
え、お兄ちゃん? お兄ちゃんって誰?
従兄でも来たのかと吹き抜けから下を見下ろすと……孝之君が手を振っている。ちょっと気まずそうな、だけどどこか可愛い顔で苦笑していた。
「よ、よう……」
……って、え、え、え?
な、なっ、なんで孝之君がここにっ!?
朝軽く梳いただけの髪。人にはとても見せられない部屋着。その全てが瞬時に頭の中を駆け巡り、一瞬の硬直の後、私は弾かれたように自室に飛び戻った。
うううーっ。あ、茜、ひどいよ……。
光の速さでクローゼットから白の服を引き出して部屋着と換え、髪にブラシを素早く通しなおし、引出しからリボンを出してヘアゴムの上に結わえる。
寝過ごした朝にしてもありえない速さで身繕いを終え、さっと鏡の前で一回りして
お父さんがいたら絶対に怒られそうな速度で部屋を飛び出して、廊下の手すりに片手を掛けてくるりと身体を回し、階段を駆け下り───
そこで、はたと我に返る。……あの、えと、た、孝之君はリビングに居る……。それはつまり……この全力疾走、全部下から見えてるってこと……!
(えっ、あのっ、違うのっ、これは……っ)
意識が数瞬孝之君への言い訳に飛んだ直後、案の定私の足は見事に階段の最後の数段を踏み外し───
「きゃあっ!」
「あ、お、おいっ!」
手すりと裸足の裏での必死の格闘もむなしく、私は派手な音を立てて一階にお尻から着地した。
「あいたた……」
ご丁寧にも途中で脱げたスリッパが頭の上に振ってきて、この最悪の状況に頼みもしない彩りを沿えてくれる。
「は、遙……大丈夫か?」
いつもなら耳にするだけで心を溶かす孝之君の声も、このシチュエーションではただ恥ずかしいだけ。
「う、うん。平気……ちょっとお尻を打っちゃっただけ……」
こうなればもう照れ隠しも何もなく、素直に状況報告するしかないよ……。
「もう、お姉ちゃんはほんとドジなんだから!」
「だって……」
いつもなら『誰のせいだと思ってるの』ぐらいは言えるんだけど、お尻の痛みと孝之君の存在が私の舌を縛る。
そんな私の心情なんてお構いなしに、「どう?」なんて茜がいたずらっぽそうな声で孝之君の顔を覗き込む。きょとんとした孝之君の表情に、茜は楽しそうな台詞───私にとっては容赦ない追い討ち───を投げかけた。
「これがお姉ちゃんの正体です!」
「おおお……そうだったか、でかした!」
た、孝之君まで……。
「どうですか?」
「うーん……可愛い」
たかゆきくんっ!
真顔でそんなこと……は、恥ずかしいよ……!
「はーいはい、ごちそうさまっ」
茜は狙いが成功した会心の笑みと、ストレートな孝之君への苦笑、そしてきっと一割の照れを混ぜた表情を見せると、そのまま「私着替えてくるっ」と階段を駆け上がっていった。
「ほら、遙立てるか?」
二人きりになった直後、孝之君が手を差し伸べて来てくれる。大きくて温かい孝之君の手。
まだまだ繋いだコトの少ないその感触が、いつまでも私の手のひらに残った───
「遙さん、ラブコメ体質?」
「うう〜、ひ、ひどいなぁ……」
「大丈夫大丈夫。きっとボクといい勝負だから」
「それ、あんまりフォローになってないよ……」
ある種、超自然的な存在だと思っていたこの子が、なんだか当たり前の経験も持ってるんだと分かって、この場所に対する不安が少しだけ薄れていった。
「うーん、でもこの扉じゃなかったね。とりあえず、もう少し周りから試して行こっ」
この世界の扉は、本当に無数の時間に通じていた。
私の開く扉は、あの子のガイドのおかげか、孝之君に結びつく幸せな時間にばかり繋がった。
それは孝之君と過ごした夢のような一ヶ月のひとコマであったり、あるいは遠くから孝之君を眺めていた頃の、今となってはちょっと甘酸っぱい時間であったりした。
なんと言っても、この一ヶ月は私の人生の中で一番幸せな時間だったんだ。その幸せの証を一つ一つ訪ねて行くような行程に、私はすっかりこの場所に来た理由を忘れていった。
だけど、幾つもの扉を開くたびに、私は少しずつ違和感を感じるようになってきた。やがてそれは、決定的なものになってゆく───
「どうして……?」
また扉を閉じた後、遂に私は両手で顔を抑えてうずくまった。
「どうしてなの……っ!」
まるでその理由がこの子にあるかのように、独り言には大きすぎる叫びが私の口からほとばしる。
「私、孝之君のこと好きなのに! ずっとずっと、孝之君のこと見てたのに!」
「はるか、さん……」
扉を開けるたびに。
幸せな、幸せな、孝之君との時間を見るたびに。
「どうして……消えちゃうの……!」
あの人の顔が、ぼやけて見えない。
まるで夢の中の記憶のように。
そこには確かに人の顔があるのに。
その表情は、誰とも取れるかのように曖昧で。
その声は、誰かの声と混ざっていて。
キスをするときにあれだけ見つめていた孝之君の瞳。その色ですら、扉の向こうでは薄闇に隠れ、見ることができない───
「どうして……なんでなのよ……っ!」
「……外の時間は流れてるから、ね」
嗚咽の隙間から絞り出すような私の声に、あの子はうつむき加減に小さく呟いた。
「例え心だけの世界でも、色んな時間に繋がる扉でも……本当に時間を戻すことだけは、誰にも、どんな奇跡にもできないんだよ……」
その声に込められた悲痛さに、私は涙をぬぐってその子と目を合わせた。
「だから、足りない分は遙さんの記憶で補ってるんだ……。だから、時間が経てば……遙さんの身体は、今も時間の流れの中にあるから……」
「嘘よっ!」
孝之君の記憶を、私が、忘れる……?
いくら時間が経とうとも、そんなこと……!
「そんなこと……ない……」
頭の中がぐるぐると回り、身体の中に冷たい水が流れ込んできたかのように、心が氷のように冷えてゆく。
「ここは何処なの……今は一体いつなのよっ!」
抑えきれない感情を、またあの子に叩きつけてしまう。それでもあの子は怒ったりも反論したりもせず、むしろとても悲しそうな表情を浮かべて、そしてゆっくりと片手を前に伸ばした。
その白い小さな指先の示す方向には、白く無機質な扉が一枚、薄明かりの中に仄かに浮かんでいた。
「遙さんが一番初めに開けた扉だよ」
「えっ……!」
「『今』に繋がってる扉。珍しいんだ、何度も逢えるなんて。でも準備も出来てないままあんまり『今』と行き来し過ぎると、向こう側に縛られて『幽霊』みたいになることもあるんだけど……」
最初に開いた扉。それは随分前のことだった気がするけれど、あの時に感じた、寒々とした恐怖は今でもはっきりと思い出せた。だけど……それでも。
「なんでもいいの、だってこれは私の『今』に繋がってるんだよね? だったら……行かなきゃ」
こんなところにもう居たくなんかない。帰らなきゃ、孝之君の笑顔のあるところへ。もしも本当に『今』が記憶が掠れるほど先に進んでいるんだったら、早く帰ってあげなきゃ。孝之君が待ってるんだから───でも、どうしてこの子はこんなに悲しそうな顔で説明するんだろう?
「うん、わかった……ボクはここで待ってるね」
それは悲しげというより、儚げな笑顔だった。
だけど、今の私にはその意味を考えている余裕はなかった。もう一度涙をぬぐって立ち上がり、その白い扉へと手を伸ばす。
扉は音もなく静かに開き、私はその中の時間へと吸い込まれた。
窓から茜色の光が差し込んでいた。
普段なら冷たい白の部屋を暖めるかに見えるだろうその夕陽は、むしろ小説でしか読んだことのない、「寂寥」という言葉を思い出させた。
私は孝之君がそこにいることを期待して扉を開けたけど、そこには前に見たときと変わらぬベッドがあるだけで、部屋は実際以上にがらんとして見えた。
その赤く染まったシーツの下には、私が横たわっているのだろう。だけどそこに人の気配は無く、何かの計器が立てるノイズだけが、唯一の存在を主張しているかのようだった。
(うーん、まぁ夕方だから仕方ないよね……)
失望をごまかすように自分を納得させると、私は自分の身体の側に歩み寄る。
その時、不意に背後で扉の開く音がした。
(孝之君!)
期待を込めて振り返ったそこには、……白陵の白い制服に身を包んだ、見慣れない女性が立っていた。
(誰……?)
靴音高く、しかしやはり疲れた表情を浮かべたその人は、まっすぐ『私』の側に寄ると、静かな声で呼びかけた。
「お姉ちゃん……」
(えっ!?)
流れるような髪。少しきつめの目元。勝気な声。見慣れたヘアバンド。一つ一つの部品は、それが確かに自分の妹であると主張している。
(そんな……茜、なの……?)
しかし一人の人間として彼女を見たとき、私の心は認識を拒絶した。それは、知らない女性だった。まるで、何年も会っていなかった人のような───
(どうして……)
彼女はそんな私の途惑いなど知る由もなく、ベッドの私に向かって話し続けた。
「遅くなってごめんね……髪、今梳いてあげるね」
そう言って茜はブラシを取り出すと、私の髪を丁寧にとかし始めた。その時ようやく、私は自分の身体に目が行った。
そして、凍りついた。
(私……私……なに、これ……っ!)
頬骨が浮くほど痩せこけた顔。
腰まで届くほど伸びた、長い髪。
茜がブラシを通すたびに櫛の歯がはぜ、自分のものとは思えない程荒れていることが分かる。
やがて布団をめくって現れた腕は枯れ木のように細く、骨張った手はまるで老婆のよう。
(そんな……嘘でしょ……)
茜はそんな私の手を取り、私の指をゆっくりと曲げ伸ばししてゆく。それは確か関節が固まらないようにと、介護か何かのビデオで見たそのままの光景だった。
耳朶によみがえる、鋼鉄の裂ける音。
交通事故。
植物状態。
別世界の出来事だったはずの言葉たちが、自分の身体を押し包んでいる。
幸せな夢の扉の中に意識を置いたまま、現実にどれだけの時間が経っているのかなど、まったく考えてもこなかった。
(冗談、でしょ……ねぇ、これ、夢だよね!?)
廊下にいるはずのあの子に向かって、私は声にならない叫びを上げる。
(これが……『今』だなんて……)
ひざが抜け、リノリウムの床にへたり込む。
ふと気が付けば、いつの間にか茜は部屋からいなくなっていた。部屋は少しずつ薄暗くなり、やがて闇に閉ざされる。
(そうだ……孝之君は……っ?)
私は待った。
そうよ、孝之君がいるなら。
明日になれば、孝之君がお見舞いに来てくれる。
だいじょうぶだよ、心配ないよって、私の髪をなでてくれる。
(そう、孝之君が、いてくれるなら……!)
私は待った。ひざを抱えて床に座り込んだまま。
夜が明け、陽が昇り、陽が沈み、夜が来る。
病室の扉が開くたびに、私は弾かれたように顔を上げた。しかしそこに立っているのは、白衣に身を包んだ、見知らぬ医者や看護婦さんばかり。茜が、お父さんが、お母さんが、入れ替わり立ち替わり私の元へ来てくれる。だけど、水月も、孝之君も、ただの一度も姿を現さなかった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
数日。数週間。あるいは、数ヶ月。
私は悟った。
ここには、あの人はいない。
どれほど待っても、孝之君は、もう───
(嘘よ……こんなの、嘘よ……)
目をつむり耳をふさぎ、それで全ての現実が消え失せてくれるかのように、私は叫んだ。
「はるか、さん」
耳元で聞こえた声に、私はゆっくりと振り返る。
全ての扉が閉ざされた回廊で、何かを堪えているような、辛い、悲しい顔をしたあの子がそこにいた。その時私はふと、きっと私も同じような顔をしているのだろう、と思った。
「ねぇ……嘘でしょ……」
あの子は、ただ静かにかぶりを振るだけだった。
「何で……何でこうなっちゃったの……?」
のどの奥からまた涙が溢れ、私の瞳を伝って顔を覆った両手を濡らしてゆく。
「帰りたい……帰してよ……こんな『今』なんていらない……孝之君のところに、帰して……っ!」
もう私は一歩も動けなかった。他の扉を開く力なんてなかった。
暗く、寒い回廊に座り込み、あの子の前で泣きじゃくるしかなかった。
「遙さん……ちょっと、いいかな」
涙の向こう、あの子の小さな身体の後ろに、扉があった。それまで無数にあった扉は全て消え、たった二つのその扉だけが、薄明かりの中に仄かに浮かんでいた。
「見つけたんだ、遙さんの答えにつながる扉。まさかさっきの直後に『その時』が来るなんて、ひどい偶然だけど……」
「そんなのいらない!」
私は即座にかぶりを振った。
あの世界を見た後では、もう何も考えられない。
「そんなの、もう……誰もいない今なんて……お願い……帰らせて……」
───ひとつは現在への扉。
───ひとつは過去への扉。
「……!」
彼女の言葉に、私はハッと顔を上げる。
彼女は片方の扉を指差し、静かに言葉を紡ぐ。
「こっちの扉を開ければ、夢の世界はここでおしまい。過去も未来も無い、遙さんの時間の中へ、現実へと帰れるよ」
無言で見上げる私の前で、彼女はもう片方の扉を指差した。
「こっちの扉は、過去への扉。だけど前にも言ったけど、例えボクやこの扉でも、本当に時間を戻すことはできないんだ……。だから、過去に還れるのは、遙さんだけだよ。きっと……辛いと思う……」
過去へ戻れることがどうして辛いなんて言うんだろう? たった今見てきた現実以上に、辛い時間なんてとても信じられない。
「私だけでも……なんでもいいの……孝之君がいないのは、もう嫌……私をひとりにしないで……」
私はのろのろと立ち上がり、まるで吸い寄せられるように、きらきらと金色に輝く過去の扉へと手を伸ばした。
「ボクに決める権利はない、から。遙さん……開けるよ、過去の夏への扉を……」
そのときの私には、もうあの子の声は聞こえていなかった。暖かいノブに手を掛け、その隙間からこぼれるまばゆい光に目を細める。
(この向こうに、孝之君がいる。水月が、平君が、茜が、みんなが……)
だからあの子の最後の呟きも、もちろん耳には届いていなかったんだ。
「バイバイ……それじゃ、また、ね」
ふと、目が覚めた。
(えっと……病院……?)
身体がものすごく硬い気がするけど、気のせいかなぁ。今何時だろう。えと、時計……どこかな。
やがて近づいてきた眼鏡を掛けた女の人が、私の顔を覗き込んだ。お医者さん、かな。
「自分の名前、言える?」
名前は……えっと。
「涼宮……遙です」
「じゃあ、今日は何日だと思う?」
昨日が孝之君とのデートだったから……
「多分……八月の二十九日とか……その辺りだと思います」
そうだ、それで私事故にあって……。このままじゃ、絵本作家展、終わっちゃうな……。孝之君、心配してるかな……。
「なら……なんでもいいわ。何か変わったと思うことは……ある?」
変わった……? 意味が良く分からない。この人は何を聞いてるんだろう。私は一応辺りを、自分の身体を見回してみた。
……見回そうとしたけど、身体が動かない。
首が回らない。指が、曲がらない。でも……。
「特に……ありません」
別に変わったところなんて、ないと思うんだけどなあ……。そんなことより、孝之君は、どこにいるのかな。お見舞い……来てくれるかなっ。
かくして、偽りの夏は始まった。
真実によって、唐突な終わりを迎えるまで。
先生やお父さんにお願いした通り、孝之君はすぐにお見舞いに来てくれた。せっかく孝之君から誘ってくれた絵本作家展だったのに……。
「いっぱい心配かけて……ごめんね」
孝之君、そんなに泣かなくてもいいのに……私はもうこんなに元気なんだから。私のことを心配してくれるのは嬉しいけど、ね。
孝之君は涙もろくなってるし、なんか水月は髪切っちゃったし。平君も忙しいみたい……みんな……あれ、すごく、変わった気がするけど……。
ズキン、と頭の芯が痛む。
えっと、なんだっけ。
そうだ。孝之君がいつも来てくれて、嬉しい、って話だった。さっきも孝之君と茜が来てくれていて、ちょっとした賭けをしたりして遊んでいた。
私が負けたせいで、孝之君に迷惑掛けちゃった。それに……孝之君だって、受験生だよね。毎日来てくれるのは嬉しいけど……大丈夫、かなぁ?
でも、なんでだろう。
孝之君と、茜と、三人で笑っているこの時間が、何処か、とても懐かしい気がする。
それに、なにか……とても大切なことを忘れている気がするの。時間のこととか……孝之君のこととか……絵本……おまじない……。
頭が、痛い。
私、あれ、えっと、幸せ。だってあの人がいてくれるもの。星に掛けたおまじないをした、あの……ほら、私の大切な人。……夢、だっけ。でも、確か指を絡めて……キス、してくれて……。
(遙さん……思い出して……)
頭の中に誰かの声が響く。
そうするとまた、頭が痛くなる。
だから、なるべく考えないことにした。
だって、幸せだから。
それでも、病院っていう特殊な場所に閉じ込められていると……色々不安になっちゃうのは仕方がないのかな。
この頭痛だって、私が良くなってる証拠だ、って香月先生は言ってくれる。でも……本当は、例えば私はもう二度と治らない病気かなにかに掛かっていて、みんなが私を安心させるために嘘をついてるのかな、なんて思ったりもする。
でも、本当にみんな嬉しそうにしてくれるなら……うん、別に、嘘でもいいかな。
(本当の気持ちが大切なんじゃ……なかったの?)
頭の中で響く、女の子の声。どこかで聞いたことのある声……。確か……扉が……。
扉、という連想をした瞬間、胸が急に苦しくなる。布団を首元まできつく引き寄せて、枕に顔を押し付けて、不安を消そうとするんだけど……。
暗闇の中で、孝之君が泣いている。
(だってこれは、今に繋がる扉だもん)
無機質な部屋にベッドが一つだけ。そこには誰かが寝かされていて、孝之君はその横でさめざめと涙を流している。私は慰めてあげたいのに、声も出ないし身体も動かない。
(だって、そこに寝ているのは、私だもの)
……え?
次の瞬間、枯れ木のように朽ちた私自身が視界に飛び込んでくる。
「──いやあああああああああっっっっ!」
そして、目が覚めた。……夢。嫌な夢。うん、夢だよね、私があんな身体に───
冷や汗をぬぐった指を見る。……すごく、細い。
私の手って、こんなに小さかったっけ?
「私……どこか、変わった……?」
そういえば、なんだか腕も肩もすごく痩せちゃった気がする。髪をくるくるといじりながら考え事をして……あれ、私、長い髪をいじる癖なんてあったっけ?
「落ち着け、遙! 誰もそんなこと言ってない。オマエが変わったなんて……誰も言ってないだろ!?」
(駄目だよ……嘘をついても、本当の幸せは)
「あの写真は……丘で撮ったあの写真は……どうしたのかな?」
そう。あの写真には、みんなが、私が写っているはず。あれを見れば、私の身体がどうなっているのか、きっと分かるはず。
「孝之くん、お願い、写真を……え?」
その時、目の前に、知らない人が立っていた。
何処かで見覚えがある……ううん、違う、この人は……あれ、孝之君……?
(遙さん……お願い、気づいてあげて……)
何かが、おかしい。
私は、幸せなはずなのに。
ほら、今だって、孝之君風邪を引いてるのに、真っ赤な薔薇の花を持ってお見舞いにきてくれたんだ。ふふっ、ちょっと恥ずかしいよ……。
ね、水月もそう思う……え?
「今……水月のこと……水月って……」
孝之君が、水月。水月が、怒って、写真が。
「この写真…………何?」
回る。世界がぐるぐると回る。
「ここにいるのは……みんな……誰?」
(前にも、こんなことが、あった気がする)
「私……私……なにこれ!? 何よこの髪っ!」
(そうだよ、やっぱり、駄目だったんだね)
「今は一体……いつなのよっ!!」
──そこで、私の視界は暗転した。
「……お帰り、っていうべきなのかな」
暗がりの中で顔を上げると、あの子が寂しそうな表情をその幼い顔に貼り付けて私を見つめていた。
「そう……だね」
何処か遠くで響く、重い大きな扉───というよりは門───が閉ざされる音を聞きながら、私は放心したように呟いた。
この暗い回廊のことを、自分の選んだ扉のことを、ようやく思い出しながら。
「どうだった……かな、昔に戻れた気分は」
一見皮肉にも取れるあの子の台詞だけど、私はそこに込められた悲しさと、そして理由のわからない共感を見出して、ただ疲れた笑みを返すに留めておき、答える代わりに、別の質問を返した。
「こんなこと……キミに言っても仕方ない、ってわかってるんだけど……」
私は静かに、まっすぐにあの子の瞳を見つめた。
「あの扉をくぐれば、きっとこうなる……って知ってたのかな。止めては……くれなかったのかな」
彼女のせいにするつもりなんて全然ない。だけど、理由くらいは聞いてみたかった。
決して責めているわけじゃない、という私の気持ちが表情から伝わったのか、あの子はちょっと気まずそうな顔で、でも素直に答えてくれた。
「なんとなく、だけど……うん、知ってたよ。ボクは遙さんが望む扉しか開けてあげることはできないし……」
二人して回廊の壁にもたれかかり、行く宛てのない視線を辺りの暗闇に彷徨わせながら、私たちは淡々と言葉を交わしていた。
「それに言い訳するつもりじゃないんだけど、遙さんを止められない、ってことも知ってた。ボクも似たような経験があったから」
諦めたような、でも苦味を残しているような、そんなこの子の台詞に、私は再び何処か共感を覚え、ほんの少しだけ安堵する。
現実の時の流れの中で感じていた幸せ。再び消えつつある記憶。たった二週間の束の間の幸せは、あまりに暖かく、温かく、ともすれば後ろ髪を引かれそうになる。だけど、その温かさが偽物だと分かっている今は、この回廊の冷たさの方がよっぽど心地よかった。
この身に沁みるような冷たさが、私の痛みを紛らわせてくれるから───
「よいしょ、っと」
幼い声には似合わない掛け声と共に、あの子が壁から離れ、辺りをゆっくりと見回した。
「さ、行こっか、遙さん」
「え……?」
「まだ……まだ諦めるには早いよっ。遙さんの時間は流れてるんだもん。もう一度、扉を……本当の時間に通じる扉を、もう一度探し直さないと」
本当の時間に通じる扉。
その言葉に、偽りの現実に戻る直前に開けた、あまりに冷たい孤独の世界を思い出し、私は少しだけ怖気づいた。
だけど……。
「よいしょ、っと」
軽く壁に向かって弾みをつけて、私もあの子の横に並び立つ。
「うん、行こっか」
例えそれが偽りの時間であったとしても、一つだけ確かなことがあったから。それは、少なくとも孝之君が、何処かにいなくなってしまったわけではない、ということ。その心はもう私の元にはないのかもしれないけれど、それでも、孝之君はあの世界にいるんだ。
あまりにあっさりと私が出発を決めたせいか、あの子は少し戸惑ったように手をわたわたさせ、口にすべき言葉を考えているようだった。
「例え待っててくれなくても、あの人がいるから」
この子を安心させるように、私は小さく微笑んでその理由を告げた。今私が動くのに、それ以上の理由はなかったのだから。
「遙さん……よっぽどその人のこと好きなんだね」
「え、あ、うん、そ、そうなんだけどね」
あの子の指摘に、急に私は照れくさくなって言葉に詰まる。でも照れるも何も、この子には私と孝之君の幸せな時間をたっぷり見せつけてしまっているのだから、今さら恥ずかしがっても無駄だよね……。
「……じゃあきっと、そこからかなっ」
「え?」
「幸せな時間は、あくまで結果。大切なのは、その理由だもん」
そう言い切ると、あの子はすたすたと歩き始めた。
私も慌ててその後を追おうとして……彼女はすぐに立ち止まり、私は危うくあの子にぶつかるところだった。
「はじめよう、遙さん」
再び見慣れた造りの木の扉の前に立つ。
私は黙ってその扉をくぐり、使い慣れた電話の受話器を上げた。
初めて押す番号の羅列を、間違えないように、間違えないように、慎重に打ち込んでいく。
告白はまだ早い───水月が最初に言っていた通りだったのかもしれない。
丘の上で鳴海君を待ってから十日。確かに、手も繋げそうなくらい、鳴海君の側に立っていられるのは嬉しい。だけど、近くにいればいるほど、水月たちと一緒にいたとき以上に、心が遠く離れていることを感じてしまう。
水月に聞いた、七桁の番号を押してゆく。
この番号を聞いた時だって、彼女には呆れられてしまった。彼氏の番号を友達に聞くなんて、って。
「ゆっくりやってった方がいいよ、遙。孝之もほら、結構その辺は鈍いからさー」
私と鳴海君の心の距離について、水月はそう言ってくれた。でも……このまま曖昧に一緒にいるだけで、本当に鳴海君の彼女を続けられるかどうか、私は自信がない。
何度も指が止まる。
本当は怖くてしょうがない。
鳴海君の方へ踏み込むことで、嫌われたらどうしよう。それどころか、二度と会えなくなったりしたらどうしよう。水月とも話しづらくなっちゃう。
……だけど。
二年以上鳴海君のことをずっと眺めていることしかできなかった私が、形だけにしても一緒にいられるんだから。話ができる、今だから。
『……もしもし』
「鳴海さんの……お宅でしょうか」
鳴海君の、本当の気持ちが知りたいから。
例え辛くても、それは今しかできないことだから。
「水月が……羨ましいです」
『でもさ、涼宮さんは涼宮さんで、いいとこあるじゃないか』
私には私なりのいいところがある。
でも、その言葉は私と誰かを比べたときに、いつも聞いている言葉だった。落ち着いてる、っていうのは暗いってこと。可愛い、っていうのは鬱陶しいということ。思慮深い、というのは無口だ、ということ。
「でも、鳴海君にとってのいいところじゃなかったら……意味ないです……だから……頑張ろうって……思ったのに……」
どうして、こんなことを口にしてしまうんだろう。
(鳴海君の側にいられるだけで、幸せじゃない}
例え同情で一緒にいてくれるんだとしても、それじゃどうして駄目なのか───急いで鳴海君に謝って、また明日ねって言って、昨日までの関係を続けたい……何度も、そう思った。だけど……
「鳴海君……私のこと……好きですか?」
『え……?』
「私のこと……殆ど知らなかったのに……付き合ってもいいよって、どうしてですか?」
だけど、心だけが遠いのは、もう───
「これって……私と孝之君の……」
まだちゃんとした恋人同士になる前の話。
あまりに幸せな一ヶ月を過ごしたおかげで、記憶から消えかけていた、あの辛い日々。
あの時の私も、今の私に負けず劣らず、時間が経つのが怖かった。ただ遠くから眺めているだけの日々に戻りたいとすら思っていた。
でもあの時の私は……。
「遙さん、次、行くよっ」
また、前と同じ形の扉。その扉の向こうから、鐘のような音が聞こえてくる。
玄関のチャイムが鳴っている。
お母さんも茜も買い物に出かけてて家にはいない。
でも、本当は部屋を出たくなんかない。月曜日の電話の会話が今でも、ぐるぐると頭の中を回っている。あの日以来、鳴海君とも顔を合わせないようにしていた。
もう一度、チャイムが鳴る。
宅急便とかだったら、お母さんとか困るよね……。
私はペンを机の上において、気が進まないままリビングのインターフォンへと向かった。
「はい?」
『あの……鳴海と言いますが、遙さんは……』
「え……鳴海、君!?」
心臓が痛いくらいに跳ね上がる。
声が聞けた嬉しさなんて当然湧いてはこなく、死刑宣告のような恐怖だけが先に立つ。口を開けても、声が出てこない。
『ちょっと……話がしたいんだ』
こないだの電話のこと……だよね。
(鳴海君、私のこと……好きですか?)
返事も聞かずに切ってしまった、あの電話。
昨日も一昨日も夢に見た、鳴海君に嫌われる夢。
今、それがきっと現実になろうとしている。
(でも……それが答えなら、仕方、ないよね)
ちょっと待ってて欲しい、と鳴海君に伝えると、私は部屋に戻り、部屋着を着替え、髪にブラシを通しなおし、ヘアゴムの上にリボンを結わえ、鏡の前で身なりを確かめた。
目が赤い。まぶたが腫れぼったい。
こんなんじゃ、嫌われて当然かな。
でも……いかなきゃ。鳴海君から、来てくれたんだから。それが……たとえ、最後でも。
「お話って……」
「ちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど……いいかな?」
私は顔を上げることもできず、ただひたすらに鳴海君の靴音を追いかけた。白陵の桜並木を登り、学校を抜け、海の見えるあの丘へ。私が告白した、あの丘の上へ。
夕日に染まる木々の間を登っていく。
ほんの二週間前に見た、でも懐かしい風景。でも、二週間前とは違う風が、私の心の中を吹き抜けてゆく。
ふと気が付くと、夕日が辺りを照らし、長い影が地面に落ちていた。木の下に立って私を待つ鳴海君は、逆光でよく見えない。影も木々と混ざり合っていて良く分からない。
早く追いつかなきゃ……そう思うのに、思えば思うほど歩幅は短くなった。
ふっと、強めの風が吹く。
丘の上で鳴海君を待っていた時に吹いたのと、同じ風が吹きぬけた。木々が同じ音を立てて揺れる。
……それが、きっかけだった。
あるいは、諦めかもしれない。
すうっと深呼吸をして……鳴海君の影へと、一歩ずつ近づいていった。
「涼宮さんに言わなきゃいけないことがあるんだ」
鳴海君の表情は、相変わらず夕日を背負っていて良く分からない。だけどそこに笑顔はなく、私の不安は一瞬にして全身を凍らせた。
「聞きたく、ないです……」
聞かなくちゃ。聞かなくちゃ。
例え辛くても、例え鳴海君が私のことを嫌いでも。
鳴海君が向けてくれる言葉なんだから……。
そう頭が理解しても、身体がついてこない。
「頼む……」「嫌、です……」
「涼宮さん」「嫌ああっっ!」
真夏だと言うのに、身体の周りから急に全ての熱が逃げてゆく。胸が早鐘のように打ち付けているのに、指先がどんどん冷たくなっていく。
目を硬くつむり、両手で耳をふさぐ。
それで少しでも冷たさが流れ込んでくるのを防げるかのように。
───その時、温かいものが、私の手に触れた。
「ごめん。いっぱい遅れて……ごめん」
それは鳴海君の指先だった。
あの日振りほどいてしまった、温かい手だった。
私はゆっくりと瞳を鳴海君に向け、救いを求めるかのように唇を開いて息を吸い込んだ。
そして───
(あの時は……絶対に振られると思ってたんだ)
(告白し返されるなんて……うぐぅ、いいなぁ)
「どうしても……それはここで伝えたかったんだ」
夢のような、鳴海君の言葉。
「それで帳消しになるなんて、もちろん思ってないけど……少しでも、君の中の時間を戻せたら……」
(……っ!)
時間を、戻す?
辛かった、時間を。
距離は近くても、心が遠かった、時間を。
(三年も遠く離れてしまった、時間を)
水月に対する遠慮で私といてくれた、時間を。
(私のために、過去を演じてくれた、時間を)
それでも、ただ見つめているだけだったこの二年間よりも、ずっとずっと鳴海君のことを知ることができた、この時間を。
(例え辛くても、みんなが必死で生きてきた、この三年という時間を)
「だめ……」(だめ……)
あの時の私の心と、今の私の心が、不意に一つに重なり合う。
『戻すなんて、絶対に、駄目……っ!』
あの時の私は大きな声で、今の私は声ならぬ声で、心の内に打ちつけた衝動を、不意の叫びに変えて搾り出す。
「どんな気持ちでも、どんな言葉でも、私にとっては大切なの……だから……」
孝之君は側にいてくれるのに、本当の気持ちは遠く、遠く離れていたのだから。
だけど、その悲しかった時間のおかげで、今まで見えなかったコトが見えるようになったのも、やっぱり事実なの。
孝之君だけじゃない、色んな人が、私の心配をしてくれた、それもやっぱり、事実。
今までの時間は、決して戻してしまって良い、還していい時間なんかじゃないんだ。例え辛い思い出でも、それは積み上げてきた永遠なんだから───
目の前の扉を、また一つ開く。
三年前の八月二十七日、私が孝之君を待って、運命のベンチに座っている。
(まだまだ知らない孝之君がいっぱいいる)
その先に待ち構えている運命を知らずに……
(少しずつ、少しずつ、これからも)
……その心は、遠く未来に馳せている。
(孝之君のこと好きになれるんだ)
これから事故に遭う私は、あの暗い回廊に閉じ込められる私は、可哀想な私なのかもしれない。
(もっとたくさん孝之君のこと、知りたい)
でもこの時の私は、過去への扉を開いてしまった私よりも、強く、強く、未来を向いている。
(今でも凄く幸せだけど……)
この時の私は知っていたはずなんだ。
人に新しい想いが届くということ。
本当の気持ちが、一番大切なのだということ。
この時の私は、まだまだ知らない孝之君を知っていくことが、最高の幸せなんだと知っている。未知の世界へ踏み込んでいくことが、本当の幸せに繋がるんだって、思えてたんだ。
この冷たい世界で時を過ごした今、それを無邪気だと呼ぶのは確かに簡単かもしれない。だけど、偽物の世界、幸せだと信じ込んでいるだけで、本当の気持ちが遠く離れてしまった世界に、本物の幸せがあるはずが、ない。
たとえ、私の時間が止まっていたとしても。
孝之君の時間が、他の誰かと共に流れていたとしても。
あの子が言っていた通り。失われた時を還すことなど、どんな奇跡にだってできはしない。過去の記憶の中に逃げ込んだところで、本当の気持ちはわからないんだ。
大切なのは、時間を取り戻すことじゃない。
大切なのは、今。
失われた時の向こうに、新しい時間を見つけることが、一番幸せに近くなれるんだ。
(帰りたい、本当の世界へ)
(全ての時が流れている、あの世界へ───)
「遙さん」
回廊は、そこで行き止まりになっていた。
目の前には、赤く錆びついた扉が立っている。
「さあ、ここで、さよならだよ」
「ここが……そうなのね?」
「そう。これが、遙さんの夏への扉。幸せになるのも、不幸せになるのも、全部自分で決められる、記憶の外の世界に繋がる扉だよ」
以前には、過去へと繋がる金色の扉に目を奪われて、まったく目に入っていなかった、この扉。
気づかなくて当然だと思う。
この扉からは、何も感じられない。
暖かさも、冷たさも、嬉しさも、恐ろしさも。
何故なら、この扉の向こうでは、その全てが、まだ決まっていないのだから。
「まさか行き止まりで見つかるなんて、凄いねっ」
「えっ……?」
「だって……ここが『果て』だもん。この扉がなかったら、この先は、本当に時間のない世界しかないんだよ」
(廊下の『果て』で天国に消えちゃうの)
「そう、だったんだ……」
私はあの子の方を振り返る。
「えっと……ここまで一緒に来てくれて、本当にありがとね。キミがいなかったら、きっとここまでは来れなかったと思うんだ……」
彼女ははにかんだような表情を浮かべて手をぱたぱたさせていた。
「あっ、そういえば」と、私はずっと忘れていたコトに今になって気が付いた。
「キミの名前を聞いてなかった気がするの」
私のその言葉を聞いて、あの子はさっきとはまた違った、そしていつか見た儚げな笑顔を向けて、こう言葉を返してくれた。
「ボクの名前よりも、大切なコトがあるんだ」
彼女はそう呟くと、爪先立ちになって片手を私の頬へと伸ばしてきた。
「今のボクにはもう、これくらいしかできないけれど……」
柔らかい光が、私の顔の周りを包み込む。
「本当に幸せになれるその時まで、ほんのちょっとだけ、やり直しを手伝ってあげる」
(偽りの記憶を、しばらくの間だけ消して───)
光はゆっくりと掻き消えた。あの子は少し疲れたような仕種をして、そして扉のほうへと向き直った。
「じゃあね、遙さん。縁があれば、また何処かで」
錆びの粉が振動でかすかに払われ、私自身の手で夏への扉が開いてゆく。扉から溢れる白い光が、回廊の隅々までを照らしてゆく。
扉をくぐる直前、私はさよならを言うために、もう一度だけ後ろを振り返った。眩しいくらいの光であの子の姿は良く見えないけれど……
「ありがとう、さよならっ」
「バイバイ、遙さん」
最後の瞬間、彼女の背中に、白い大きな翼が見えた気がした──────
ふと、目がさめた。
私の全身は硬く強張っていて、肌の感覚はほとんどない。身体全体が何か色々なものに繋がれていて、ほとんど動くことができない。
頭がうまく回らないけど、混乱した記憶の最後に目前に迫った車の姿を思い出して、自分の身に何が起こったのかを、漠然と悟った。
(あれ、でも他に誰かに会っていた気がする……)
頭の芯から来る頭痛と、天井の眩しさに再び目を閉じる直前、
一枚の白い羽が、空中を舞い落ちた。
私は何故か静かな笑みを浮かべながら、
もう一度、浅いまどろみの中に落ちていった。
「偽りの記憶を消すのは、反則かもしれないけど」
暗く永い世界で、その天使は独り言つ。
「必ずしも良いコトだけじゃないし」
何処か自分の古い記憶を引き出すように、何処か羨望の思いを重ねるように、
「でも、あのおねーさんなら大丈夫、かな」
───彼女もまた、しばしの眠りについた。
かすかな物音がして、私は目を覚ました。
ゆっくりとまぶたを開けると、そこには。
「あ……」
「よぉ……」
待ち焦がれていた顔が、私を見つめていた。
「孝之……君?」
「うん……俺だよ」
孝之君の声は震えている。
私の声も同じように、かすれている。
やがて聞こえてきた孝之君の台詞に、何故だろう、私の瞳からは、涙があふれ出た。
「おはよう、遙」
───孝之君は、確かにそこにいた。
昨日よりもずっと大人っぽくなって、それでも相変わらず優しい笑みを浮かべて。
何故だろう、確かに三年の月日は経っているはずだけど、私にとっては昨日今日のこと。それなのに、孝之君の顔を忘れてしまっていたような気がしていて、今その笑顔を見たことで、ものすごく安心している自分がいた。
三年の月日が、経っている。
きっと、何もかもが変わっている。
これから、きっと大変な日々が待っている。
だけど……だけど……!
この世界には、まだこの人がいる。孝之君が、ここにいてくれるなら。
(絶対、だいじょうぶだよ……!)
私の時間は、再び、動き始めた───
(よかったね、遙さんっ)
その時、遠く背中の方から誰かの声が聞こえたような気がしたけど……気のせい、かな。
それからの二週間に何があったかは、もう何度も語られて周知のことだと思う。
流れ始めた時間は、決して優しくはなかった。孝之君に、水月に、茜に、それぞれの三年間があったんだ、ってことを身をもって痛感させられた。
だけど、私は、孝之君は、同じ時間の中に、帰ってきた。
私と孝之君は、再び出会い、恋をして、そして、結ばれた。
孝之君の言葉を唯一の支えにできた私は、ずるいのかもしれない。でも、私にできることは、再び手にした幸せを、二度と逃がさないこと。そして新しいこの時間を、自分が出来る限り優しく、包んで受け入れることだと思う。
水月の痛み、孝之君の痛み、茜の痛み、私の痛み。
その傷は私たちの心に深く刻まれたけど、その傷ですら、永遠とも呼べる時間の、ほんのひと欠片に過ぎないのだろう。
今は違う道を歩むことになった水月。でも彼女とも、新しい時間を刻んでいく日が、いつかきっと来る。明日を怖がる必要なんて、もう何処にもないんだ。例え心が冬の只中にいようとも、無数の時の扉を開けば、そのうちの一つはきっと、新たな夏へと通じているのだから。
この世界の何処かにある、みんなの夏への扉。
それをただ夢見ているだけじゃなく、
その扉が開く明日を、信じている。
──YOU GOTTA BREAK DOWN THE DOOR.
“無垢なる夏は、今や手の届かぬ遙か彼方に”
“道は続く、悲しみの時を越え、ただ一つの夏の扉を押し開く”
お久しぶりでございます、維如星です。
本作品は2003年夏に発行した「道は遠く夏の彼方へ」に書き下ろした作品のWeb再録版です。本作収録の「彼方」は流石に再版は厳しい状況で、未読の方も結構いらっしゃるかと思いますので、今回再掲を決めました。
ちなみに本日は2004.08.27。ああ、あの衝撃からもう3年が経つのですねぇ……。本作は「あの日」を扱ったものですので、一応記念になればと思い、この日に再公開を合わせてみました。
さて、とりあえずは発行時の後書きから。
2003.08「道は遠く夏の彼方へ」あとがきこの夏への扉、実は最初の構想は君望二次創作開始直後の2001年10月のこと。それ以来、書いては消し、消しては書きの紆余曲折を辿ってきましたが、この度めでたく日の目を見ることとなりました。年来の宿題が片付いた気分です(笑)
「神慮の機械」ではその後「Distant Star」という、遙メインのWeb短編シリーズを公開しています。そこに描かれる遙はかなり「強い」のですが、その根底となったあの事件を、彼女の視点から描いてみたかったのがそもそもの動機でした。
しかし、この話は二次創作の限界点かもしれません。ほとんどオリジナル要素の話ばかりで、果たしてこの作品が受け入れられるのか大変不安なところです。こんなのを文章も書いたことのなかった2年前に目論むとは、そりゃ書けなかったはずですね、まったく。
試行錯誤の跡は今でも見て取れます(苦笑)。こうして再公開を決めてさくさく再掲しようと思いましたが、今読み返すとあまりに酷い日本語に、思い切り修正を入れたくなってしまいましたが……それをやっていると多分公開まで数ヶ月掛かりそうなので、とりあえず最低限の直しのみで公開いたしました。やー恥ずかしい(汗)。
ちなみにこの話、遙エンドです。公開時には茜エンド話と併載したこともあって、読まれた方の多くがこれを茜エンドの話と思われたようです。一応、遙の目覚めに孝之が立ち会っていたり、「再び手にした幸せを」という台詞を挟んだりしてるのですが……演出不足を痛感しました。
それからもう一つ、作中の少女……ええ、うぐぅ、なんていうキャラはこの世に一人しかいませんね?(笑) 本当はあの台詞を省いたまま、誰かネタに気づいてくれるかと試してみたかったのですが……これもチキンなので結局明白な擬音台詞を挟んでしまいました。うーん、やっぱり演出不足ですねぇ……。
ご感想・ご批判等、掲示板または下記メールフォーム等にてお寄せ頂ければ幸いです。
それでは、例によってあと少し下へどうぞ。
still more to go...▼
「あれ、姉さんこの人形なに?」
「えっ、なになに?」
「ベッドの頭のところ……ずっと気づかなかったんだけど」
そこにあったのは、手のひらに収まるくらいの、小さな人形。
白い服に、同じくらい真っ白な羽。頭の上に黄色い輪っかを載せた薄汚れた小さな天使の人形が、キーホルダーとしてひっそりと結わえ付けられていた。その頭の輪は落ちかけ、片方の羽は千切れかけていたけれど。
「これ……姉さんがつけた……わけはないよね」
「うん……お母さん、かなぁ? それとも孝之君、とか。少なくとも茜じゃあないんだよね」
「私が付けたならこんな汚いのにしないってば。うーん、確かに鳴海さんのセンスなら、ありえなくもないけど……」
「茜、さりげなく酷いこと言ってない?」
「あははっ、気にしない気にしない。で、どーするの?」
私はその人形をベッドから外してみた。
どう見ても見覚えのないキーホルダーなんだけど……
(私、どこかで、この子に会ったことある気がする)
「……うん、私これ持って帰る」
「え、本気で?」
「これ……きっと私の守り神とかなんだよ」
「姉さんはクリップですら守り神にしちゃうからなぁ」
「いいのいいの。天使さん、家に帰ったら、ちゃんと綺麗に直してあげるからね───」
──to be continued to: "Christmas Prologue" at M.E.D.