それからが大変だった。
異変に気づいて駆け寄ってきた姉さんも、そしてなんと当の鳴海さんも……鳴海さんを河に投げ込んだのが私だとは気づいてなかったみたい。
「いや……急に何か恐ろしいものが接近してきたかと思うと、吹っ飛ばされて……。茜ちゃんが『危ないっ!』って叫んでくれたことは覚えてるんだけどな。アレ一体なんだったの?」
「えと、その……それはですね、……私も良く分からないんです。ス、スクーターか何かでしょうか……」
「それにしちゃ何処も怪我してないしなぁ……へーっくしょい!」
溺れかけてた鳴海さんも、それを助けに飛び込んだ私も、すっかり濡れ鼠だった。
私はまだ上着を脱いでから飛び込んだけど、鳴海さんのほうはコートまですっかり水に浸かっていた。私たちは言葉を交わしながらも、寒さに震える身体から少しでも水気を取ろうと、乾いたタオルで努力していた。
「いやー、人間って服着てると全然泳げないもんなんだね〜」
投げ込んだ張本人が目の前に居るのも露知らず、鳴海さんはあっけらかんと私に苦笑気味の台詞を投げてくる。
そう、冬のコートを着たまま水に放り出されれば、コートが重く水を吸っちゃって泳げるわけなんかない。……私……危うく鳴海さんを殺しかけちゃったんだ……
ううー。鳴海さんと目が合わせられないよ……
とにかく、二月の空気は、冷たかった。
仕方なく私たちは「すかいてんぷる」に戻ってきて、バックヤードでタオルを借りて寒さをしのいでいた。濡れた身体で電車に乗るわけにも行かず、お母さんを電話で呼んで車を回してもらい、ウチに帰ることになった。
そんなこんなで、鳴海さんと姉さんのデートはお流れ。
でもお母さんの勧めもあって、鳴海さんはウチでお風呂を使ったあと、そのまま夕食を食べていくことになった。当然夕食後には姉さんのガトー・オペラがご披露され、夕食後の時間の話題は自然と姉さん達の思い出話になっていく。
私は鳴海さんと目を合わせることもできないまま、そんな場所には居たたまれない。
そのまま、適当に口実を作って部屋に戻ってしまった。
はあ……
結局……渡せなかったな……。
私は何気なく、窓際に立って空を眺めてみた。
夜空に灯り始めた星灯りの下、折角のバレンタインも終わりを告げようとしている。
2月14日。誰もに与えられたこんなにも大きなチャンス。
そんなきっかけをみすみす逃してしまった自分が情けなくて……そんなきっかけがないと気持ちを伝えることもできる自分が不甲斐なくて、思わず涙がこぼれそうになった。
今日は本当に運もなかったし……
やっぱり私が鳴海さんに何かをあげるなんて、駄目なんだろうか。
明日からまた、普通に過ぎ行く日々に戻ってしまう。
いつしかこの想いは……届くのかな……
その時。
私の部屋のドアをコンコンと控えめに叩く音がした。
私は慌てて目元を拭いながら応える。
「あ、誰? お母さん?……姉さん?」
「あ……えっと、俺なんだけど……いいかな?」
え、鳴海さん!?
もう一度すばやく鏡で目の周りを確認して、急いで部屋のドアを開けた。
「鳴海さん……どうしたんですか? 姉さんは?」
「遙なら今台所で片付けしてるよ。……いやさ、ちょっと茜ちゃんに聞きたいことがあって。中、いいかな?」
鳴海さんは目線で私の部屋の中を指してそう聞いてくる。
私は慌てながらも、部屋の中の状態を10秒前の記憶からチェックしてみた。
……問題、ないよね。
「構いませんよ、どうぞ」
「それで……一体どうしたんですか? 鳴海さん」
「それなんだけどさ……俺の勘違いだったら許してくれ」
何の話だろう……
鳴海さんが珍しく、私に何か遠慮しているような表情をしている。
「今日夕方……茜ちゃん、何かプレゼントの包みみたいなの、持ってなかった? ほら、今日ってバレンタインだろ? だから……」
えっ! み、見られてたんだ!
まさか鳴海さんの方から話を振ってくるなんて。この展開はまったく想像してなくて、私は答える事もできず、恥ずかしさに真っ赤になって俯いてしまう。
「えっと……それはその……」
ところがそんな私の前で、話はもっと想像していない方向に進み始めた。
「……でもさ、溺れてる俺を助けてくれたおかげで、茜ちゃん今日は夕方からずっと俺らにつきっきりだったろ? そのせいで、もしかして茜ちゃんが渡したかった相手に会いに行けなくなっちゃったんじゃないかと思って……さ」
え……。
鳴海さんは本当に申し訳なさそうに、ゆっくりと言葉を選びながら話し掛けてきた。……いつも優しくて、私を気遣ってくれる鳴海さん。でも、私の好きなこの表情が、今日だけはすごく辛い。
渡したかった相手……それは、鳴海さんなのに……
「いいえっ! あの、その、全然っ!」
心配そうに見つめてくる鳴海さんの手前、私は仕方なく激しく否定して見せた。
「……いいんです、渡す機会は……また、ありますから……」
──嘘。
渡す機会なんて、もうない。
私が想いを伝えられるチャンスは、もう来ないのに……
「そっか、でもやっぱりアレって誰かに渡すための物だったんだ。……あの包みからして手作りなんだろ? 羨ましいな〜」
どうしてだろう。
なんとなく、その無責任な台詞がカチンと来た。その苛立ちに悲しみを紛れ込ませて、かろうじて冗談に見えるジト目を作り上げる。
「……何が羨ましいんですか? 鳴海さんだって今日、姉さんにものすごい手作りもらってるじゃないですか」
「そりゃそうだけどさ。でも茜ちゃんみたいな女の子……いや、茜ちゃんに手作りのチョコを貰える男が羨ましい、ってコト」
「……え?」
「だって茜ちゃん可愛いし……それに、本当の意味での優しさ、ってのを知ってる気がするんだよな」
鳴海さん……。
「少なくとも俺は茜ちゃんのその強さに何度も助けられたし……そうだな、茜ちゃんは……遙の次に大切な人なんだ。俺にとって君は、それだけの存在なんだよ」
だから。
鳴海さんはほんの少し目を伏せて、言葉を紡いだ。
だから、そいつにちょっと嫉妬するぐらい構わないだろう、と。
姉さんの次。
私が望み得る最高の、決してそれ以上を望んではいけない、第二位の存在。
私が鳴海さんの口から聞ける中で、一番幸せで、一番辛い言葉。
……ずるいよ……鳴海さん……
私まだ何もしてないのに……伝えたい気持ちもあったのに……
そんなに一番の台詞を、先に言っちゃうなんて……!
私は涙がこぼれそうになるのを、必死に堪えていた。
しばらくの間、沈黙が部屋の中を支配した。
気まずいような、それでいて、ほんのり暖かい空気。
「あ、あの……茜ちゃん?」
でも私の沈黙を誤解したのか、鳴海さんは気まずそうに口を開いた。
「ええと……変なこと言っちゃってゴメンね」
「え? あ、いや、いいんですっ! なんか凄く……嬉しい事を言われた気がして……ちょっと照れちゃってました」
本当はそれだけじゃ、ないけれど。
「……鳴海さん」
「ん、なに?」
「このチョコレート……受け取ってもらえませんか?」
そう、その台詞が聞けちゃったなら。
いいよ、茜。せめて手作りの気持ちだけでも、渡しておこう。
「え!? 茜ちゃん、だってこれはその……」
「いいんです。どうせ本当の気持ちを込めては……渡せない相手でしたから」
私は机の引出しから包みを取り出しながら、挟んだカードを手早く引き抜いた。
「鳴海さん、ありがとう。私……さっきの言葉、すっごく嬉しかったです」
鳴海さんの目をじっと見詰めながら、その包みを手渡す。
……ちょっと狙って投げてみた直球。嬉しいことに、鳴海さんは予想以上に赤くなって照れ笑いを見せてくれた。
「あ、いや、茜ちゃん、そう言ってもらえると俺も……その……」
「あ〜、鳴海さん赤くなってるっ! 少しはドキドキとかしちゃいました?」
「う、いや決してそういう訳では、その」
「ふ〜ん、鳴海さんが赤くなったって、姉さんに言っちゃおうかな〜」
「そ、それだけは勘弁してくれ。やっと遙機嫌直ったんだから」
「ふふ……態度次第ですねー」
それは幸せな、幸せな、ほんのりと甘い時間。
見慣れてるはずの自分の部屋も、鳴海さんがいるだけで、何か特別な舞台のように思えてくる。二人きりの空間というだけで、いつもの軽いノリの台詞の中にも鳴海さんの体温を近くに感じていられる。
……これはやっぱり。
この感情は、疑いようの無い……恋、なんだろうなあ……。
「と、とにかく! 茜ちゃん、プレゼントありがと」
「いえいえ、どういたしましてっ」
まるでチョコのような、ほんの僅かの苦さと共に。
いつかその苦味が、私を傷つけるのかもしれない。姉さんや、鳴海さんを困らせるのかもしれない。だけど……
ぼんやりと想いを巡らせながら、窓から星空を見上げる。
うん、今日だって色々あったけど……最後に何が起こるかなんて、本当に、誰にも、分からないんだよね。
「ねぇ、鳴海さん」
そう考えると少し可笑しくなって、私は呟いた。
「人生って……楽しいですね」
だけど……今だけは、味わっていたい。
このささやかなる甘さを、星灯りのもとで。
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