風にはためく白のシーツが、慢性疲労を訴える目に眩しく突き刺さる。
眼下に広がる青に一瞬目を安らげ、咥えた煙草に火を点けた。
ついに、涼宮遙が退院する。
たった今、彼女の自宅療養移行を決めてきたところだ。
3年間、彼女の主治医として、誰よりも彼女を見つめてきた。彼女の周りにいる若者を、ずっと眺めてきた。涼宮さんを囲み、彼女の家族、そして鳴海君と並んで、この3年間を最も長く感じてきた人々のリストに、自分も名を連ねている。
一時は永遠にこのままとすら思われた彼女の退院。静かすぎる涼宮さんの寝顔は、あまりに昔を思い出させて……その度に、自分のしてきた事に見落としがあったのではという恐怖に駆られてきた。
退院。───感慨は、ある。しかし、善くやったと自分を誉めるよりも先に、湧き上がるのは悔悟。疑念。果たして自分はうまくやれたのだろうか? 彼女の時間をもっと早く戻せたのではないだろうか? ご家族を傷つけたりはしなかっただろうか? あの若者たちの未来を、潰しはしなかっただろうか。
自分は、でき得る限りのことをしてきただろうか───
ふぅ……
判っている。自分がやってきた事の結果自体は、他人が評価するしかない。ただ、自分の治療が、自分に恥じないか。ただ、それだけなのだと。救おうとして救えなかった患者だっている。救ったのに、自ら命を絶った患者すらいる。時に感謝され、時に家族に憎まれ、それでも、自分は医術で生きていくことに誇りを持っている。一人の少女があの病院を出て行くときに、私は自分の仕事に、誇りを持てるのだと。
「やっぱりこれは感慨というのかしらね」
紫煙が夏の空へと昇っていく。涼宮遙が眠りについた夏。もうすぐ終わる、夏の空。
「香月先生ではありませんか」
思いがけぬ声に、急に現実に引き戻される。病院の屋上に似つかわしくない、のんびりした、病人とは思えぬ男性の声。院長から研修医まで、一通りの男性医を頭に浮かべて振り返る。
モトコの目が、めったにない驚愕に開かれる。
「え……崎山、様?」
そこにいたのは、決して忘れることのできない顔。
「御無沙汰しております」
そう言って深々と頭を下げた。あの時と、変わらぬ丁重さで。
「い、いえこちらこそ……崎山様、今日はどうしてこちらへ?」
「そんな、『さん』で結構ですから。
……今日は妻の付き添いでして、待っている間久しぶりにここの空気を吸おうかと思いまして。……ああ、大したことはありません。ただ、妻がやはり安心できるこの病院がいいと言いましてね」
彼の言葉は、モトコの声を詰まらせた。
この病院を。その言葉。
彼の顔を見続けることに耐えられず、夏の空を仰ぎ見る。
胸に去来する思い。いや、10年間頭から離れることがなかった思い。研修医を終えた自分がいきなり経験した、最大の無力感。自分の姿を顧みる、最も厳しい心の鏡。
「……また転勤になりまして。橘町は繁華街ですし、一応栄転ということになってますが……私は10年ぶりに古巣へ戻れたことのほうが嬉しいです」
救えなかった、少女の命。
「あれからもう……10年、ですね」
ようやく絞り出せた、言葉。10年の歳月。
「……香月先生も、お元気そうで何よりです」
全ての手を尽くした。
自分が全てを決められるわけではなかったが、それでも持てる全ての知識、全ての技量を注いだ……つもりだった。そして急変した容態。担当の先輩が、私が、たくさんの看護婦が、急速に消えゆく彼女の幼い命を追い求めた───焦燥と無力感を同時に抱きながら。
最期の時。彼女はまるで眠っているかのようだった。
だが、彼女はそのまま意識を取り戻さず、眠るように逝いて帰らなかった。倒れて以来、一度も父親の顔を見ることもなく。
まさか死なせないだろうと思っていた傲り。
医者になればいつか経験するだろうと思っていたはずの悲しみ。
襲ってきたのは悔悟。想像もしていなかった痛み。
本当に自分はでき得る全てをやってきたのだろうか。
自分は残された人にどんな顔を向ければよいのか。
何よりも、救えなかったことへの痛み。
……あの時、ご両親の感情を真っ先に考えなければならなかったはずの場所で、冷たくなった彼女の手を取り、モトコは、泣いた。
「───あの時は、本当にありがとうございました。」
思いがけぬ崎山の言葉に、急速に現実に引き戻される。
「もしあの日香月先生の涙を見ていなければ、私も妻も決して今日この病院に来ることはなかったでしょう。決して、この町を懐かしいと思うことなどなかったでしょう」
10年前にも言われた言葉。
娘を失い、誰かを恨みでもしなければ生きていけなかったであろう崎山夫妻。私が恨まれても当然だったのに。
『……あの時、文字通り最高の医療と心を、娘が最期の日々に受けていたことがわかりましたから』
医者が患者以外に対してもできる事がある。そう強く認識することができた、10年前のあの日。救えなかった事実に変わりはなくても、それでも医者にはやるべきことがあると教えてくれたあの日。
ありがとうございます。今、崎山の目は再びそう言っていた。
3年前、涼宮遙が転院してきたときから。
彼女の妹さん、彼氏の鳴海君。ご両親以上に不安定な2人の若者を、ずっと見てきた。2年前、鳴海君に下した結論は……今でも間違いではなかった、と思う。茜さん程の強さを持っていなかった、彼には。
それは、患者である涼宮さんに何もできない日々が続いたことが、心に何か埋め合わせを求めただけなのかもしれない。だが、患者は決して一人孤立しているわけではない。あの時、患者の周りにはこれだけの人々がいるのだと実感させられた。……患者のプライベートに干渉しすぎると言われるのかもしれない。だがそれを放置しておくことが、医者として、まがりなりにも経験のある人間として、正しいことだとは思えなかったのだ。
10年前のあの時の言葉を、唯一つの心の拠り所にして。
そして今。
「───患者のみならず周りの人間まで救う。私なら、やはりそんな医者に掛かりたいと思います」
モトコの心を見抜いたかのような、10年ぶりに聞く崎山の言葉。
人ひとり救えなかった癖に……そんな暗闇に耐えながら自分がしてきた事が、決して無意味ではなかったと思える瞬間が、そこにあった。
「店に来ているアルバイトの方が、やはり親戚が入院されたそうなのです」
突然、崎山がそんなことを話し出す。だが、唐突な感じはしなかった。
「ひと月程前のことですかね。親戚といっても、ご両親とは離れて一人暮らしをされていると聞いていましたし、ほとんど毎日お見舞いに行っているのですから……よほど親しい親戚が偶然近くに住んでいたか、あるいは、将来の親戚か……というところだとは予想がつきました」
鳴海、君……?
「……まるで10年前の私を見ているようでした。……若い人に、私のような思いはさせたくない……それはただの自己満足かもしれませんが」
「……それは私も同じですわ……結局患者を救えなかったときの言い訳を用意しているだけの、自己満足なんじゃないかと。それでも私は、人に尽くすことをやめるわけには行きません。その大切さを教えてくれた、ご息女のためにも」
軽い感傷が夏の空へと抜け、モトコの顔は医者のそれに戻る。
「もうすぐ、私がここ3年間診てきた患者が退院するんです。彼女の命を、人生を取り戻すことができて。……これも人間の欲と言うのでしょうか、彼女の周りにいた無防備な若者たちのことまで気に掛けるようになるなんて」
「……それが人を救う欲であれば、それも良いのでありませんか? 医者という立場から離れ、経験ある者としても、せめて我々にできることをやってあげたいと思うのは自然なものです」
しばしの沈黙が流れる。
「……そのアルバイトの彼は、最近自然な笑顔で来てくれるようになりまして。『親戚』が回復した……というだけではない気がする、そんないい表情です」
モトコと崎山の目が合う。
「患者を救い、しかも人の心にこれだけの希望を与えられる。医者というのはすごい職業ですね……彼もきっと良い医者に逢えたのでしょう」
かつて、一人の人間の命を共に願い続け、今、自らの痛み故の優しさで人を見守る二人が何かを共有した瞬間。
「人が辛いときには、それを支えてやる人がどうしても必要です。それが家族であり、友人であるのですが……」
未来に責任を強く持つ両親では言えないこともある。若い友人ばかりでは感情に流されることもある。子の幸せを願う親の気持ちほど強いものはないし、感情で動くことが大切な時だってある。それでも。
「経験を経た者にできることは、時には冷たく若者の感情を引き戻し……」
「そして時に道を示し、背中を押してやること……ですね」
ふたりはどちらが先というでもなく笑みを浮かべあい、そして、
「……随分と似た境遇の若者が近くにいるものですね」
「本当に、偶然ってあるものですね」
会釈した。
「そろそろ戻らないと妻が私を探しに来そうです」
「私もそろそろ回診の時間でしたわ。……また当病院をご利用ください、などと医者が言ってはいけないとは思うのですが」
「ははは、今度は私も香月先生に診ていただくことにしますよ。
……先生が今もその笑顔で患者を見ていてくださる。そのことが、娘の……晴華のためでもありますから。……では」
「……奥様にもよろしくお伝えください。それでは。」
終わりゆく夏の日々。
崎山が消えた後、新しい煙草に手を伸ばしかけ……ポケットにねじ戻す。
自分を待っている人がいるから。
涼宮さんのところへ、この朗報を届けるために。
また次の戦いで、自分ができることを為すために。