VERBA VORANT, SCRIPTA MANENT.

Fate/staynight小説

維如星ウェイ・ルーシン

十年前、戦争があった。


いや、その戦争は二百年の昔から
終わることなく続いてきた。
彼らは冬と陰鬱が永住する山を出で、
極東に築いた自らの聖杯を求め戦いを繰り返した。


だが、停滞に憑かれた彼らに勝利は無い。

彼らは世界の変化にすら気づかなかった。
敗北を重ね、凡百の提供者に成り下がりつつあった彼らは、
それでも不毛な切望を貫き、道を過たず、血統を繋ぎ、
魔の領域をも超えた妄執を以って規格を捻じ曲げ、
その力で四度聖杯に挑んだ。


それが、二百年に及ぶ戦争。
───彼らは執拗に戦い、そして惨敗した。


戦争の最中、己が聖杯を漆黒の毒で満たす
愚すら犯したアインツベルン。
その煉獄、溢れ出す呪いを目の当たりにした魔術師は、
自らの手で聖杯を断ち割る決意を降したのだ。


この地に仮初めの平和が訪れた。

その小さな平和の永遠を信じた魔術師は
この地に一振りのガランドウの剣を残し、

聖杯以外の永遠を信じぬ妄執の一族は
その地に一つの空っぽの器を育てた。


───それが、十年前のお話。


Fate/staynight イリヤスフィール短編小説

雪の境界a cathedral, snow white

維如星ウェイ・ルーシン

1: whiteshadow

聖杯戦争後、冬。

窓の外には、白い闇が広がっていた。

叩きつけられる吹雪は古びた木枠を絶え間なく鳴らし続け、己の支配権を高らかに宣言する。大気を埋め、大地を覆い、今このささやかな小屋を囲む全ては、文字通り雪の下僕だった。


「しばらくは止まないね、これ」

彼女はつまらなそうにそう言い捨てると、窓の外から目線を逸らした。何せ、アインツベルンにとってはあまりに見慣れすぎた光景だ。止まないのが当たり前の雪乱舞。氷と不毛に閉ざされ、窓越しに眺めることしかできなかった銀世界。そこから連想されるのは、苦い記憶ばかりが蘇る、遠い故郷の地。

だから──この感情はおかしい。

「別に、懐かしくなんかないんだけどな」

彼女、イリヤスフィールは鈴のように透明な音色で、ふと心に湧いた「懐かしい」という感情を声に出して否定した。

さらり、と銀色の髪が微かに揺れる。

彼女は小さくかぶりを振ると、改めてこの山小屋の中を見回した。

寒さはゆっくりと、だが着実に彼女の小さな世界の中に染み込んでくる。雪の重みはこの粗末な小屋に、不気味な軋みを伝えていた。空は荒れ狂うこと丸二日。しかし冬の山岳地で育った彼女の経験は、この吹雪がまだこれからピークを迎えることを直感していた。

まぁ、なんとかなるかな、とは思っている。

本来であれば「なんとか」どころではないはずだった。彼女はマスターではなくなったとは言え、歴とした「名門の魔術師」である(マスターと魔術師の違いはリンが丁寧に説明してくれたっけ)。大災害ならいざ知らず、殺意を持たぬこの程度の天候に害されるような彼女ではない。


でも、それも一年前までの話。


──一度灼き切れた回路に魔力は通らない。元から少ないヒトとしての機能はますます錆びてゆき、残った回路の一部はそれを補うために常時埋まっている。揮える力は、さほど多くは無い。

差し当たり、山小屋にはピンポイントでささやかな結界を張り、冷気の侵入に対抗している。保温ができているのなら、リン程の効率が出せなくても、時折魔力を熱に換えてやるだけで十分一日二日は持つはずだ。万が一不意の雪崩にでも潰されようと、人間一人二人程度の空間なら維持できるはず。食糧はあと一日分しかないけれど、いざとなったら意識的に身体機能を遮断すれば、更に数日持つと思う……とまぁ、これくらいは「なんとか」の範疇なのだ。

(元々物理干渉は得意じゃないんだから、これくらいで上出来ってことにしとこっか)

そうさっさと諦めたのだから、後は天候の回復か救出を待つだけ。窓の外を眺めるぐらいしかすることはない。

「でもやっぱり、寒いのは嫌よね」

といっても、これ以上贅沢を言うわけにはいかないのだけど。

それでも、寒いのはイヤだ。あの不毛の森の記憶に繋がってくる、寒いという感情。その苦痛にはもう慣れたけど、慣れたからと言ってそこに懐かしさなど感じるはずがない。

……はずがないのに。


彼女は再び窓の外に眼をやった。

白いノイズが乱舞する、一寸先も見えぬ闇。自分と世界を隔てる、白と黒の境界線。

白い闇は過去の記憶、凍てつく恐怖の体現なのに、自分はどうしてそれを懐かしい、美しいと思ってしまうのか。舞い飛ぶ雪に、何処か包まれるような温かさを空想してしまうのは───

(あまり雪の向こうに見入っては駄目よ。氷の闇に魅入られたら帰って来れなくなりますからね)

それは、彼女が持つ数少ない優しい記憶。城の窓から吹雪に包まれた森の奥を眺めていると、母さまにはそう怒られたものだった。

(どうして?)

(向こうは居心地が良すぎるのよ、イリヤ)

母さまの声は優しくて好きだけど、その意味はよく分からなかった。今だって分からないままだけど、聞きなおしたくても母さまはもういない。(こうやって雪に囲まれたって、寒いだけで居心地なんて全然良くないのに)

母さまの言葉に頷いていたキリツグだって、もうとっくの昔に死んでしまった。……それともあれは、死ぬ、って意味だったのだろうか。

「私もここで死んだら、何か分かるのかな」

美しいまでに透明な白い闇から今度は目が離せぬまま、彼女はそっと呟いた。死、という言葉を眼前の光景に重ねても、雪と等しく身近なその概念にはまったく恐怖を感じなかったのだが。

(私が死ぬなんて当たり前のことだもの)

彼女は造られた時より短命を義務付けられた存在であり、砂で偽装した内臓は、いずれ流れ落ちるのが必然だった。またそれを当然として育てられてきた以上、死に特別な感情を持てないのも仕方の無いことである。

(キリツグは死んじゃったし、どうせわたしじゃ次の戦争までは持たないんだし)

藤村家での生活。シロウやリン、サクラにタイガと過ごす日々はもちろん楽しかったけど、それが永く続くなどという幻想も、執着も彼女は持っていない。彼らの人生に関わる資格など、この身体では持ちようがないのだから。

目的の無い飛行。ヒトは、それを余生と呼ぶのかもしれない。

(バカ、そんなことあるもんか。イリヤはちゃんと生きて幸せにならなきゃダメだ)

拡散していく意識の中、ふと赤い髪の少年の姿が浮かんでくる。少し怒ったような顔をして、いつだって大真面目にバカなことを言う少年の声。

「なによ、なんでシロウにそんなこと」

再び窓に背を向け、ひざを抱えて座り込む。


───雪は、止む気配すら見せずにいた。


薪木が爆ぜて赤い粉を撒き散らした。

暖房器具としての暖炉など飾りに過ぎないけれど、火の音は外で遠く吹き荒ぶ吹雪と相まって妙に雰囲気を醸し出す。


暖炉付きの宿を選択する辺り、時計塔の様子見、と洒落込んで秋口に旅行したロンドンに早速かぶれたか──と思いきや、彼女曰く暖炉は冬木の屋敷で幼少から慣れ親しんだモノで、四元素の調和の体現がどーたらで落ち着くんだとかなんとか。

「要するに、子供の頃からいい想い出があって好きなんだ、ってことだろ?」

と、要約して返してみせると、

「アンタね。投影なんてヤクザな魔術使ってんだから、少しは『縁起』えにしのおこりってモノに興味を持ちなさいよ」

などと明後日の方向に拗ねられてしまった。

本来衛宮士郎は火の爆ぜる音は好きじゃないのだけど、この上そんなことを口にして、また遠坂に妙な心配(というか説教)をされるのも面倒だ。


それが、ほんの数日前。

つーんと横を向いた遠坂の顔に炎の灯りが仄かに映えて、こっちは火照りだす顔を暖炉の熱で誤魔化すのに手一杯。赤いあくまの破壊力の健在っぷりを痛感しつつ、そこを銀髪のあくまにツッコまれて苦境に落ちる、そんな呑気な冬休みを過ごしていたはずだった。


「……で、どうなんだよ遠坂」

だが今、暖炉の雰囲気など味わう余裕は微塵も無い。

彼女の翳った表情を見れば答えは不要と分かっても、一応状況は聞かざるを得なかった。

「よくないわね。この吹雪じゃ水晶の鳥オートパイロットには荷が重い。一応翡翠を放ってみたけど、直接操作リモートコントロールでもあっさり叩き落されたわ」

この雪じゃ回収もできないじゃない、なんてケチ臭いことをぶつぶつ言いながら、彼女は雪に湿った冷たい身体を暖炉の前で乾かしだした。

「なんだよそれ。せめていつ晴れるのかぐらい分からないのか?」

あまりに泰然とした遠坂に憮然として、士郎は思わずそんな英雄頼みをやってしまう。一方の遠坂は呆れたようにいつもの溜息をつくと、この魔術使いに自明の解説を展開する。

「やってもいいけど、それこそテレビの天気予報以上のことは分からないわよ。わざわざ現代社会が金と労力を注ぎ込んだ気象衛星を魔術で後追いするなんて、無駄の極みもいいとこ。あと一日は救助隊も釘付け、そこに変わりはないわ」

──凛の瞳が炎に揺らぐ。それを見た士郎は、自分の読みの甘さを反省した。いい加減遠坂との付き合いも長いし、元々士郎の前では彼女のポーカーフェイスもひび割れ気味なのだ。

そう、彼女が炎を見つめる視線から、彼は気づいてしまった───いつもの遠坂を装っていても、内心コイツも結構心配なのだ、ということを。大体普段どおりの遠坂なら、無駄と分かっていながら手持ちの宝石を飛ばしたりはしないはずなのだ。

とはいえ、手が無いと分かってもおとなしく空を睨んで座っていられないのが、衛宮士郎が衛宮の名を引く所以である。

「いくらイリヤが少食だって、あそこの非常食もあと一日ぐらいしか持たないぞ。あいつはまだ子供なんだ、もし間に合わなかったら……」

イリヤが木組みの「鳥」を飛ばして連絡を送ってきたのが二日前。なんとか避難小屋に入れたことだけは分かったが、以来一切の連絡は途絶えていた。

遠坂曰く、いくらイリヤも遠坂並みの転移魔術の使い手であれ、宝石や長期間自分の魔力に晒した品物を持たない状況では、あの天候の中で一度でも使い魔が届いたのも奇跡に近いのだとか。

「分かってるわよそんなの。でも焦っても何にもならないし……あ、それありがと」

重い樫の椅子に腰を下ろし、士郎に差し出されたココアを受け取りながら、彼女は自若を繕ったまま応える。

「それにまあ、イリヤならなんとか大丈夫でしょ。子供だって言っても、正直士郎が遭難しているよりは安心できるわ。一応雪夜の森シュナイエントバルト生まれの魔術師なんだし、第一アインツベルンのマスターなんてキワモノ、殺したって死なないもんよ」

……前半については実際反論できない。遠坂先生の下でも士郎の属性魔術は未だに未熟で、安定した熱変換なんていう初歩技ですら夢なのだ。

でも、後半は。

「遠坂、そんなこと言っても、あいつの身体は」

それを遠坂が知らないはずはない。どんなに無邪気に振舞っていようと、イリヤは。

「……それも分かってるわよ。でも、今は大丈夫な方に賭けるしかないでしょう? あの子には手持ちのカードを効率よく切るぐらいな如才なさは期待できるし。……ま、明日になっても状況が好転しなかったら、わたしだってもうちょっと無茶を考えるわ」

そっけない答えに本物の憮然を隠す。彼女は逆に士郎に問うことで、繕いを完璧にした。

「それにしても衛宮くん、あの子のことになると妙に心配するわよね」

「そんなの当たり前だろ。イリヤは俺の妹なんだから、家族を心配するのは当然じゃないか」

確かに、家族と言うならば桜も藤ねえも家族同然ではある。

でも、イリヤは更に切嗣の血を引いている──それを知ったのは聖杯戦争が終わってからのことだったし、だからって特別意識するとかそんなコトはない、はずだけど。

「そっか」

士郎の答えに、凛は軽く応じた。

「確かにあの子、危ういもんね」

む、と士郎は口に運びかけたマグを止め、真っ直ぐに遠坂の目を睨み返した。それは明らかに、イリヤの身体のことを言っているのではない、と気づいたが故に。

そんな士郎に彼女は、まあまあ、とばかりに手をひらひらさせて先を続けた。

「ほら、どうせ士郎も寝るつもりないんでしょ?付き合ったげるから、とりあえず座りなさいよ。どうせわたしたちは──

──待つしかない、だろ」

彼は凛の台詞を引き取り、窓の外を振り返りながら長椅子に腰を下ろした。

「ああ、俺も、、寝るつもりなんてないよ。遠坂、その言い方さ、付き合うとか以前に元から起きてるつもりだったんだろ?」

「……う、うるさいわねっ! そんな細かい言葉尻気にしないのっ。まったく、何処ぞの英霊とか思い出しちゃったじゃないの」

ふい、と彼女も窓の外を向く。

期せずして、お互い外を荒れ狂う白い闇に視線を送っていた。ささやかな沈黙が降り、吹雪の風音だけが一際耳につく。やがて口を開いた凛の言葉は、既に自己の内に向けた言葉となっていた。


「そうね、どうせ今夜も待つしかないわ。わたしも、士郎も、それからイリヤも」

2: silent night stands still

冬木市、開戦前夜。

それは暗く静かな夜だった。

うなじの骨が寒さによって針と軋む。


見上げる空は仄かに白く、ぬるい大気のせいか瞬く星の数も多くはない。故郷の空が晴れた時の、降り散る星々の美しさには較べるべくもない。

(でも寒くないなら、こんな空でもいいかな)

この地でも季節は同じ冬のはずなのに、夜になっても空気はまだ肌寒い程度で済んでいた。──故に、首筋に走るこの感覚は外気の寒さに依るモノではない。己の宣戦布告を前にした、自身の内側からくる高揚にも似た殺意だ。

不自然なまでに暗く静かな夜。

開戦を待たずして満ちる、戦場の呪い。

だが、この街に既に参戦者による網が掛けられていることなど、イリヤは歯牙にも掛けなかった。それは、アインツベルンのマスターの前に、全ての生贄マスターは下賎である、という矜持だけではない。イリヤスフィールの参戦理由そんざいいぎの前に、他の害虫の存在など目にも入らなかったというだけのこと。


そう、妄執の一族が聖杯を熱望するように、

人造の聖杯は復讐を渇望していたのだ。


本来であれば、彼女は真っ先に自分の目的を果たし、後はアインツベルンの教えに従って、森の居城で生贄たちの殺し合いを悠々観戦していたことだろう。

だが、待望の聖杯戦争、彼女が求めて止まなかった復讐の最初の一手は、数日前、たった一つの墓標の前に遅きに失したことを告げられたのだ。

───なんで)

衛宮切嗣、と。その石に刻まれた紋様は彼女の限られた日本語能力の範疇外にあり、文字として読むことはできない。だが、彼女はそこに触れるだけで十分だった。

十年待った。十年追った。

十年憎んで、そして十年、求めてきた。

アイツとわたしは繋がっていた。逃げられるはずなんてなかった。だからこの文字なんて読めなくても──キリツグがこの石の下にいる事が、分かってしまったのだ。

──また、わたしを置いて)

許せなかった。黙って死んだことよりも、復讐が果たせなかったことよりも、母さまの地で眠らなかったキリツグが許せなかった。

憎かった。最悪の裏切者の死を感知していなかったはずはなく、それを戦意の為と称し、今まで彼女に伝えなかった自分の一族が憎かった。

そして何より、分からなかった。

その墓標を前にして、細い水の糸を引いているこの赤い目が何よりも理解できなくて、それがたまらなく不愉快で、彼女は固く固く目蓋を閉じた。


──後に思えば、それが自分の流した最初で最後の涙だったような気がする。


冬木での一週間はこうして過ぎた。

アインツベルンの千年の妄執は、当然彼女にも刷り込まれている。自身の参戦理由に穴が開いたとはいえ、それで一族の戦争目的を忘れることはない。いやむしろ、これで聖杯を雪夜の森に持ち帰ることは、彼女にとって存在意義にも関わる目的となる───はずだった。

大聖杯の起動式が、聖別された生贄のリストを彼女に告げるまでは。

それは、アインツベルンが用意した数々の反則の一つ。今回、二百年近く前にマキリの当主から文字通り引き抜いた魔術刻印を最大限に転写した無限令呪も十分な反則ではあるが、聖杯の起動式を利用して戦争の情報を得ることもまた、アインツベルンの用意した保険である。それは七十年前の失態の調査、聖杯汚染を探る過程で編み出された副産物に過ぎなかったのだが──

───え)

聖杯が伝えてくるのはイメージに過ぎない。

イリヤが見た映像も、魔術師にしてはか細い魔力の匂いと、おぼろげな少年の姿だけである。

(でも、この感じは)

少年は笑っていた。誰もが温かみを感じるような笑顔。しかしそれは哀れなほど透明で、自分の周りだけを温もりの範疇から除いているかのような、自己の欠落した微笑みだった。

そしてそれは、戦争に向かうキリツグがただ一度振り返った時の儚い笑顔に重なった。肩越しに見せたその笑顔が、彼女にも、彼女の母にも、そしてキリツグ自身にも向いていないと気づいたあの日、彼女は漠然と、彼がもう二度と戻らぬのだと悟ったのだった。

彼女の中では、母娘は聖杯戦争の果てに捨てられたのではない。彼女は開戦前夜の時点、あの笑顔で見限られたと思っていたのだから──

───そう。こんな後継ぎを作ってたんだ)

だから、この憎むべき笑顔を浮かべる少年はキリツグだった。あの男と繋がっていた彼女だからこそ、それだけで確信できる。

少年とキリツグの間に血縁のない事は感じた魔力の波動から分かっていたが、彼女にとってそれはむしろ、彼女の母親と彼女自身への許しがたい罪を重くしたに過ぎない。

新たな復讐対象。新たな参戦理由を得て、イリヤスフィールは戦争準備を再開した。


アインツベルンの反則は、再び思わぬ運命の流転を聖杯戦争にもたらした。それが吉と出るか凶と出るか───だが反則イレギュラー不規則性イレギュラリティをもたらす事を理解できないからこそ、彼らは敗北の歴史を続けているのかもしれなかった。


──今宵、少年はこの道を登ってくる。

少女は待った。不吉なまでに暗く静かなこの夜、彼女の新たな戦争目的を展開するために。下賎のマスターのような、薄汚い殺意を向けては始まらない。母さまの娘の名に恥じぬ、冷たく優雅な笑みで迎えよう。

──うなじの骨がシン、と軋む。

彼女はそれを高揚と受け取った。心に任せ、自然と足を前に運び出す。真月を背に、ゆるりと坂を下ってすれ違おう。

宣戦布告はもう間近。ほら、もうすぐそこに、彼女が憎み続けて来た父親の裔、復讐の対象となり得る存在が───


「早く呼び出さないと死んじゃうよ、───


月明かりが赤毛の少年の面を照らし出す。月の光が夜の世界をほんのひととき白く染め上げる。

そこに浮かんだ表情は、この夜に似合わぬ余りに平和な空気を纏っていた。

月に眩む。惑わされたに違いない。

刹那、白月の光の中、ある種飄々とした表情でぼんやりと夜空を見上げる少年の姿が、遠い日に白雪の光の中で、冬空を眺め上げていた浮世離れた男の姿と重なったのだ。それはキリツグの最後の表情を憎むあまり、この瞬間まで埋もれてしまっていた記憶の姿だった。

静かな夜風が彼女の髪をかすめ、ぎこちなく頭を撫でられる感触がかすかに蘇る。そう、あれは不器用ながらも父親であろうとしてくれていたキリツグの───


───、お兄ちゃん」


裏切者。魔術師風情メイガス恥知らずの後継者バスタルド

投げつけようと思っていた言葉があった。

心からの侮蔑を込めようと思っていた。

叩きつける言葉はわたしと少年を聖別し、それは最高の宣戦布告になるはずだった。なのに、何故その瞬間に、わたしはそんな言葉を選んでしまったんだろう───

interlude: midnight meditation

聖杯戦争後、冬。

「あれがそもそもの間違いだったのよね」

雪夜に重ねていた一年前の回想から意識を戻しつつ、わたしは瞳を閉じて小さく呟いた。

言葉は意識に還るという。

少なくともあの呼び掛けを紡いだ時点で、殺意は既に興味に変わっていた。わたしは兄とも弟とも呼べる存在に、理由の分からない執着を感じてしまっていたのだ。

最初はそれでも、壊すためにモノにするなら復讐になると信じていた。かつてキリツグがそうしたように、優しくしてから捨てるのだと。それが十年間捨てられていた自分や母さまにとっての復讐なんだと、本気で信じ込もうとしていた。

(なのに、シロウは優しくしたら優しくしてくれちゃうんだもん)

一度は裏切られたと思い、再び殺意を向けてしまったけど、その後バーサーカーを失ったわたしを匿ってくれた頃には、なんとなく気が付いてはいたのだ───アメチャンシロウが継いでいたモノは、昔のキリツグだったということが。

あるいは、あれが本当のキリツグのカタチだったのかもしれない。でもだからこそ、シロウの優しさを無条件で受け取るわけにはいかなかった。

(わたしは───永くは生きられないから)

短命の末の死を、わたしは受け入れている。

でも、きっとシロウはそれを悔やむだろう。

積極的に兄妹の関係を求めてしまえば、彼はきっと、わたしがアインツベルンの裔として刻んだ業すら背負ってしまうに違いない。

大聖杯を読んだわたしは、前回呼ばれた弓騎士アーチャーが如何なる英霊かを知っている。セイバーの想いを受けたシロウは芯こそ強くなったけど、それでもわたしは、シロウが魔術師キリツグに堕ちてしまうのが、たまらなく怖かったのだ。

強引に奪ったりしなくても、シロウはとっくにイリヤわたしのモノだったというのに。

目的を失ったイリヤスフィールからっぽのうつわには、それを受け取る資格がなかったのだ。

白い夜が更けてゆく。

「それにしても、もうあれから一年か」

静かに燃える暖炉の炎の傍ら、出会った頃のイリヤの話などをぽつぽつとしながら、ふと士郎が感慨深げに呟いた。

「ま、冬が来ただけで一年じゃないけどね」

一方の凛は冷静に指摘する。イリヤと士郎が出会った頃は、すなわち凛と士郎が直接知り合った時期でもあるというのに、妙に自分の話が少ないのが気に入らなかったようだ。

「……遠坂だって言葉尻にはうるさいじゃんか」

と、儀礼上むくれて返した上で、士郎は改めて彼女に指摘する。

「つか遠坂さ、おまえがこんなにイリヤのこと心配してるのって結構意外だな。いや、別に仲が悪かったとかそういうんじゃなくて、なんつーか遠坂とイリヤって天敵めいてたというか、その」

「アンタね、わたしを何だと思ってるのよ。……そりゃ、今イリヤに何かあったら利害面でも困るのは確かだけど」

凛はジト目で反論しだしたが、途中でちょっと目を逸らしてしまう。視線で目ざとくそれを指摘された彼女は、一瞬言い淀んでから後を続けた。

「あのね、イリヤが遠坂の領地わたしのとちで暮らしてるのって、実は結構凄いことなのよ。士郎の家にアインツベルンの大使館ができたようなものね。おかげで表面上、トオサカとアインツベルンの関係はここ数代無かったぐらい良好なの。なんせ二百年ぶりに共闘体制が組めそうなんだから」

魔術の名門同士の複雑なご関係というヤツですか、などと他人事のように感想を持った士郎だが、よくよく考えてみればその共闘体制の結果が、あの一連の聖杯戦争なのである。

「まて遠坂、共闘って今度は何するつもりだ」

「何って、もちろん聖杯戦争絡みよ。ま、共通の問題を抱えてるんだから関係改善も当然かもね。向こうも六十年後を食器洗いなんかに消費したくはないだろうし、こっちには……桜の問題もある。聖杯召喚システムを三すくみにした意味が、二百年経ってようやく出てきたってトコかしら」

桜の名前が出てきたことで、士郎の思考回路も魔術使いのそれに切り替わりかける。が、凛はまた軽く手を振って話題を散らした。

「大丈夫、時期がきたらキチンと話すわ。桜のこともあるし、衛宮くんも無関係じゃないの分かってるから。まったく、マキリのジジイも碌でもないことを思いつくモノだけど、次の戦争前にタネが割れたのが運の尽きね」

ふふん、と凛は不適に笑ってみせた。

……まったく、いつだってコイツは遠坂なのだ。

「ま、話を戻すけど、そんなことがなくたってイリヤの心配ぐらいするわよ」

暖炉に新たな薪を焼べながら、彼女は士郎の最初の疑問に回答した。

「……血が繋がってなかろうが、家の名前が違おうが、イリヤと士郎は兄妹なんでしょ? わたしね、ちょっとそういう事情に弱いのよ」

暖炉の赤に紛らせながら。珍しく、彼女は照れたような表情を浮かべている。だが、次に続けた言葉と共に、彼女は再び真面目な顔に戻っていた。

「それにさっきも言ったけど、やっぱりあの子は何処か危ういもの。名門の魔術師には少なからずそういう面はあるから、魔術師として育てられなかった士郎よりは一応理解があるつもりよ。でも、それにしたってイリヤは……アインツベルンの呪いに囚われ過ぎてるわ」

イリヤ自身は聖杯であり、その肉体は巨大な英霊の魂を受け入れるように造られていた。その事実は、同種の連想を凛の心に産み落とす。


少女は巨大な妄執の器となるために、
そのなかを空っぽに造られたのではないだろうか───

3: under the crimson night

冬木市、終戦前夜。

窓の外には、灰色の雲が流れていた。


寒空は零れ落ちそうな雪を孕みながらも、遠く西の端には僅かに赤い切れ間を覗かせている。聞けば、この土地では西から天気が変わるという。このまま行けば空は晴れ、今宵降り散るのは雪ではなく星になるだろう。例え窓から見上げる空が見慣れた故郷のものに似ていても、その些細な違いに彼女は知らず微笑んだ。

(この街の雪は嫌いじゃないんだけどね)

それでなくても、この土地の冬は暖かい。

世界にはこんなにも暖かい冬があり、昏い空が吹雪を地表に叩きつけることなく退却する気象がある。──アインツベルンのマスターとして叩き込まれた知識の中では理解していても、それだけで世界がこんなにも優しくなる、なんてことは経験してみなければ分からないものだ。

はあ、と熱い呼気を吐き出す。

タタミという床の不思議な匂いの中、布団の上で半身を起こして窓の外を眺めていた彼女は、ふと自分の呼吸に気付いて口の近くに手をかざしてみた。……熱い。

「もう四体もいるんだから当然ね」

彼女は何気なく自分の状況を口にした。

正純の聖杯たる彼女は、その精神こそ最終儀式に備えて守られているものの、英霊の巨大な魂は彼女の魔術回路、ヒトの機能を偽装する部分をも埋めてゆき、結果、彼女の身体機能は既にあちこちが遮断されていた。

ライダー、アサシン、キャスター、そしてバーサーカー。その最後の名前に思考が行き当たった時、彼女は思わず自分の胸にそっと手を当てた。

無垢の魂として彼女の中に収められた以上、その英霊と意思を交わすことはできない。でも、バーサーカーはいつだって見守っててくれる。大体あの無言の巨人とは、現界時にだって言葉を交わす必要なんてなかったのだ。

(もう少しだけそこにいてね。シロウはきっとあなたを正しく使ってくれる)

今回の聖杯戦争の真の目的を、彼女はシロウに託すと決めていた。元々今回の聖杯が意思を持っているのは、汚染対策という保険である。

復讐を願ったイリヤが復讐者アヴェンジャーの掃除を任されたのは皮肉だが──彼女の意識という方向性がある限り、大聖杯に篭った泥も英霊の魂を穢すことはない。後は大聖杯との接続時に英霊七体の魂を攻撃色に染めてぶつければ、受肉前の呪いアンリマユなど何程でもない。むしろ背後の孔をこじ開ける質量の一部にすらなるだろう。

(ま、その場しのぎとはいえキリツグの判断が正しかったって分かったんだから、今頃雪夜の城の会議場は怒号の嵐ね)

自分の送った調査報告が巻き起こしているはずの騒動を想像して、彼女はくすりと笑った。

シロウが聖杯でセイバーに何を望むにせよ、それでもイリヤは彼の協力を疑っていなかった。アンリマユを排除しない限りどんな願いも歪にしか叶わないし、排除した後でも願望機として機能する程度(程度、なんて言ったら協会に殺されかねない量なのだが)の魔力は彼に残せるはずだった。問題はない。

不安要素があるとすれば、まずは開戦以前に既に令呪を通じた反応が読めなくなったランサーのマスター。殺されたと見るのが妥当だけど、ランサーの魂はまだ彼女の元には来ていない。

そしてもう一つの不安は、一昨日の夜に現れた得体の知れない第八のサーヴァントだ。アレが規格外の存在であることも恐ろしかったし、何より「いいから早く開け」というあの言葉は、この戦争の裏方に勘付いた者の台詞に他ならない。

お爺様なら何か知ってるかもしれないけど、全身の諸機能を失いつつある彼女には、もはや戦争終結まで本家と連絡を取る術はなかった。

「……でもきっとシロウとセイバーがなんとかしてくれるもん」

彼女は無根拠にもそう呟いた。そう、だって彼らはバーサーカーを倒してしまったのだから、彼女には彼らに守られるケンリがあるはず──

───ぞくり、と。背中に走った得体の知れぬ悪寒に、彼女の思考は中断された。

縁側から見上げる空は鈍色に沈んでゆく。

未だ居座る分厚い雲のように、遠坂凛は腕を組んだまま思考に沈んでいた。セイバーが飛び出して行ってから随分と時間が経つ。まだ彼女も士郎も戻っていない。

「セイバーの方もだいぶ士郎に入れ込んでるみたいだし。過保護っぷりも分かるんだけど」

だが、そんな少女らしい色恋話で判断を鈍らせる程、彼女は未熟な魔術師ではない。

魔力の流れこそなくても、セイバーは士郎と繋がっている。おまけに彼女の危機感知能力はずば抜けているワケで、これで士郎に何もないと思う方がおかしい。彼らは何処かでランサー辺りと遭遇戦を戦っている可能性だってあるのだ。サーヴァントを持たぬこの身が恨めしい。

「ああ……もう、こんな時こそアーチャーが必要だったのに。あのバカ、なんで死んじゃうのよ」

この僅かな日々の間に、呼びかければ皮肉を交えて応えてくれた赤い外套の英雄を当たり前と思っていた自分にも腹が立つ。彼女は喪われた相棒に虚勢を張るかのように毒づいた。

(まあ、ランサーぐらいなら今のセイバーなら負けはないと思うんだけど)

問題は八番目のサーヴァントの方である。正体こそ未だ不明だけど、山ほど宝具を持っているなんて英雄の天敵みたいな存在である。大体あの金ピカが彼女のサーヴァントと同じ「アーチャー」だって辺りも無性にむかつくのだが。

(無数の武器が出てくるって辺りは確かに似てるかもしれないけど……宝具を打ち出すから弓兵ってムチャクチャな概念ね)

とは言え、例え彼女の英霊が健在でも、セイバーの後を追うわけにはいかなかったことぐらいは分かっている。恐らく、今回の聖杯は和室で寝ているイリヤそのものだ。ここ数日の彼女の機能不全は、彼女を構成している魔術回路が英霊の魂で溢れ始めているからだろう。

ギリ、と凛は奥歯を噛み締める。

イリヤが未だヒトとしての繕いを保っているのは、偏に彼女の尋常ならざる精神容量のおかげに他ならない。が、無論それは彼女が耐えているであろう苦痛を無効化したりはしない。

凛自身、左腕の魔術刻印を起動する度に襲われる蟻走感には慣れたとはいえ、その蟻走感を上回る異物感には、未だ時折自分の腕を切り落としたくなる衝動に駆られている。

ましてや全身を巡る魔術刻印の上を、自身の魔力ですらない巨大な魂で塗り潰されてゆく感覚など、正気で耐えられるとは思えない。生き物は自己という境界の中でしか生きられないのに、その自己に出て行けと強制される。それは、全身の免疫系にオマエは自分ではないと反乱されるようなものではないか。

彼女もアインツベルンが妄執の一族だとは聞いていたが、己が一族の娘を勝利のために躊躇いなく贄に供する執念は、遠坂凛の生き方からは遠く離れた思想であった。


ともあれ、別働の敵がイリヤを奪いに来ないとも限らぬ以上、凛は衛宮邸から動けない。何せ最後の敵であるソイツは前回の聖杯戦争を生き延び、今回も槍兵を使って全てのサーヴァントに接触をしているようなヒネたヤツである。情報はたっぷり持ってそうだし、イリヤが聖杯であることを察してる可能性も十分にある。

「それにしても情報が少なすぎるわ。協会の魔術師が死んでるんだったら綺礼あたりが何か知ってそうなものだけど……」

そうだ、あの腐れ神父は監視役としての情報を握っている上に、前回の聖杯戦争の経験者でもあるのだ。なにか手掛かりぐらいは掴んで───

と、不意に鳴った呼び鈴に思考が中断する。

(ああもう、士郎もいないのに面倒ね)

そう普段の発想に流れかけ、流石に彼女は頭を切り替える。このタイミングで赤の他人が衛宮邸を訪問する──そんな偶然はむしろ必然と呼ぶのではないだろうか。

(警報は鳴ってない──これを壊さず潜れるのはアサシンか本気のキャスターぐらいだし)

少なくとも、ランサーやあの金ピカが結界潜りのような真似をするとは思えない。それでも一応警戒しつつ、彼女は玄関に近づいた。

「はい、どちら様でしょう?」

扉を閉めたまま呼びかける。

「教会の者だが。頼まれていた調査の結果を知らせに来た。───ふむ、その声は凛か。衛宮士郎は不在かね?」

緊張が僅かに緩む。言峰綺礼。先日も士郎が相談に行ったというが、まさか向こうから情報を携えてくるとは思わなかった。

「てっきりアンタんトコに行ったんだと思ってたけど。……ええ、今はちょっと出掛けてるわ。わたしで良ければ話を聞くけど」

───ふむ、確かにサーヴァントを失ったとはいえ、おまえも未だマスターである以上無関係な話ではあるまい」

と、引戸の向こうの神父は即答した。

「いいだろう、おまえから衛宮士郎に伝えてもらえば手間も省ける。……此度の聖杯、アインツベルンの娘について重要な話があってな」

ほんの少し、期待が外れた。彼女は若干表情を緩めると、衛宮家の引戸に手を掛ける。

「イリヤが聖杯だって話? それならわたしも気づいてはいたんだけど。……重要な話ってまさかそれだけじゃないわよね」

開かれた扉から、相変わらずの慇懃な笑みを浮かべた黒衣の神父が玄関に足を踏み入れる。

「流石におまえは気づいていたか。無論、その話だけで来た訳ではない。本来このようなことは監視役としては禁じられているのだが、そうも言っていられない状況になってな」

この神父ほど「本来」などという原則論に従わない男もいないことを知っている凛は思わず苦笑する。彼女は兄弟子が律儀に靴を揃えるのを眺めながら、一方、心の何処かで違和感を感じていた。

「ともあれイリヤスフィールはどうしている。彼女の元へ案内してもらおうか」

「あの子なら和室で寝てるわよ。まあ、とりあえず上がんなさいよ。勝手知ったる他人の家、一応お茶ぐらいは出せるから」

そう告げながら彼女は言峰に背を向け、居間への廊下を先導し出す。

──それにしても、先ほど中断した思考はなんだっけ。そうだ、最後のマスターの話、それに綺礼も前回の───


最後の敵は前回の聖杯戦争の生き残り。

槍兵を偵察に使うような謎のマスター。

イリヤが聖杯だと知っている可能性。


そういえば、協会の魔術師の死を監視役が知らぬはずがないとさっきも考えたはず───

「そうか、和室か。では早々に用件を済ませるとしよう。……因果なモノだな、遠坂の魔術師の背中を眺めるのはこれで二度目だ」

言峰の有言実行と、敵に目的地を教える愚を犯したと悟った凛の思考はほぼ同刻。

「綺礼、アンタ───

自分の台詞の終わりなど待たない。

彼女は言峰の方に身体を反転させつつ、逆に居間の方向へと反射的に跳躍した。直後、今まで自分のいた位置に、黒い閃光が振り落とされる。

──────っ!」

床板を割り込んだそれは代行者の黒鍵。本来斬撃には不向きなソレを、言峰は居合の真剣の如く無音で振り抜いたのだ。

「ふむ、少々行動が早すぎたか。だがいずれにせよ、長く誤魔化し通せる妹弟子でもないからな」

愉しげですらある神父の声。だが、身内に対するように語りつつも男は動きを止めず、僅かに下げていた右腕を鞭のように跳ね上げる。その掌には、既に複数本の黒鍵が握り込まれていた。

一方の凛も即座に思考が切り替わっている。宝石もなく、長い詠唱の余裕もない。左右の空間もない廊下では鴨撃ちだ。ならば、

速射Eile──!!」

彼女は後向きの跳躍を止めることなく、固形化したガンドを彼女と言峰を結ぶ線上に集中してバラ撒いた。本来、教会の黒鍵とは投擲武器。射線上にこれだけ弾幕を張れば、少なくとも最初の投擲ぐらいは逸らせるはず───

眼前を埋め尽くした黒い影を、右腕の筋肉だけで放たれた黒い刃が風切り音と共に交差する。

彼女が床を蹴って居間への角を曲がると同時に、僅かに軌道をずらされた黒鍵が突き当たりの壁に立て続けに突き刺さった。

(やば、アイツ完全に殺す気だわ)

この期に及んで聖職者の不殺生を信じるはずもないが、相手が斬撃の跡を誤魔化しもしなさそうなのは計算外だった。

(つまりアイツが何かを隠す相手はもういないってコト───

不吉な想像を振り払う。最後のマスターは綺礼。ならば、戻らぬ士郎とセイバーが対峙しているのは二体のサーヴァントに他ならない。

(でも綺礼が独りで踏み込んで来たのは幸いね。片方でもサーヴァントがいるなら今頃とっくに結界を突破して来てるはず)

ならば、この場で言峰を最低限足止めし、イリヤを連れて逃走すればまだ勝ち目はある。居間に飛び込んだ凛は即座に両手を入口に向け、最速で最効率の呪いを紡ぎだす。


汝黒鉄の杖を以て 彼の者を打ち砕けEiserner Knuppel, Brechen Sie Feind──!!」


瞬間契約テンカウントはおろか高速干渉ナインワーズすら望めぬ刹那の間合い、本来攻撃を得意としない彼女がギリギリの線で放つ最大のフィンの一撃。

黒衣を翻して廊下を曲がった言峰は、ちょうど正面から黒弾に飛び込む形となり───神父はソレを避けもせず、自ら身体を開いて黒弾をその胸へと叩き込ませた。

─────え」

心臓に直撃した呪いは物理的衝撃と共に、本来の重圧効果も最大限に与えるはずである。だが言峰は表情一つ変えず、彼女の攻撃を無効化した。

凛が声を漏らす間こそあれ。言峰は角を曲がった勢いをそのままに、強く踏み込んだ軸足をもって強制的に身体を回転させる。懐から取り出した柄は四つ、瞬時に魔力で刀身を編上げ、回転の威力を以って斉射する。

それは如何なる魔術に拠るものか。

滑るように放たれた黒鍵は凛の脇腹を刺し貫くと同時に、投擲剣にはあり得ぬ勢いで彼女の身体を居間の最奥まで吹き飛ばす。状況を把握する暇もなく、部屋の壁に縫い付けられる形となった彼女に、更に灼熱の痛みが襲った。

「ぐっ───!」

古来、最凶の拷問と言われたのが火炙りである。身体の内側を灼かれる痛みは単なる刀傷の比ではなく、余りの激痛に視界が紅く反転する。

身体に突き立てられた黒鍵は発火せんばかりの勢いで高熱を発していたが、やがて炭が崩れるように脆く砕け落ちた。

「着火には到らなかったか。未熟な火葬式典とは言え、五大属性者には更に効きが弱いな」

残念がる口調とは裏腹に、居間の真中に進んだ彼の足取りは既に勝利者としてのそれである。言峰はまるで殺生を悔やむ聖人の如き表情を浮かべ、その実、口元はゆるやかに綻んでいた。

「綺礼、今のは───

直接の熱が去ったところで、凛はかろうじて疑問の声を絞り出す。

「なに、埋葬機関の連中が得意とする投擲法だ。本来そこの壁など打ち抜く威力なのだが、如何せん見様見真似では連中の様には行かないな」

「そっちじゃないわよ、アンタ、その心臓」

「……ああ。十年前からの聖杯の呪いでな。この身は人を呪う類の攻撃には滅法強いのだ」

男は聖者の如き笑みを崩さぬまま、床に滑り落ちた遠坂を見下ろした。

「さて、師弟対決はなかなかの興だったが、生憎と時間がなくてな。最初に告げた通りだ、早々に用件を済ませて辞するとしよう」

遠坂に背を向けて和室へと歩き出す言峰を、凛は全力を以って呼び止める。

「待ちなさいよ……ぐっ……イリヤを……行かせる訳ないでしょう……っ」

壁を背にして身体を起こす。足に力を込める度に、傷口から大量の血が零れだす。定まらない焦点を目の前の神父に強引に結び、片手を上げて言葉にならない詠唱を紡ぎだす。

「ふむ、覆らない現実を即座に認めるのがおまえの長所と思っていたが。何故そこまでしてアレにこだわる? もはやマスターとしての勝利のないおまえに聖杯は不要のはずだ」

その言葉は彼女の耳に届かない。

一節でも、一小節でも、攻撃を、アイツに。

ごふ、と口から赤い液体が溢れ、集中はゼロに逆戻りする。頭の中で声がする。止めろ。休め休め休め。刻印があればわたしは死なない。倒れろ、休め、眠れば綺礼も殺しはしない───

「……聖杯なんて知らない……でも、……あの子は、渡せ、ないのよ……!」

消えかける意識。だが、それでも凛はその手を降ろさず、己の心をカタチにする。

「……止むを得まい、聖職者たる者無闇な殺生は慎むべきなのだが、むしろこの場で引導を渡すのが主の下僕としての勤めだろう」

言峰の手に再び剣の柄が握られる。

焦げ付いた空気に鉄の匂いが紛れ込む。告解の黒鍵が彼女に秘蹟を強制せんとしたその時、

「もういい、やめなさい、リン……!」

銀色の少女が、悲痛な叫びでそれを押し留めた。

イリヤに刻まれた全身の令呪は、他の令呪に敏感に反応する。彼女を不意に襲った悪寒が他のマスターの接近に拠るものと分かった瞬間、彼女は残る回路を総動員して跳ね起きた。ぴしゃり、と中身の何処かが切れた音がするが、もはやこの身体を労わる必要はあまりない。

彼女は僅かな間、眼を閉じて気配を読む。

(え──シロウは? セイバーはどこ?)

守護者として信頼しきっていた二人が屋敷の何処にもいないと分かり、イリヤは急に狼狽しだす。その彼女の耳に、玄関の方から馴染みの薄い男の声が聞こえてきた。

(これはコトミネ……そういうことね)

開戦前に慣習として、一度だけ監視役には表敬訪問していたが、あの時はまだ令呪を奪ってはいなかったということか。

(って、悠長に考えてる場合じゃないわ)

確かコトミネはリンと同門の師弟関係にあったはず。彼女はわたしのように開放されていない令呪を察知することはできない以上、リンは相手を敵と認識できない───

(大体赤の他人を信じるなんて、リンもシロウもアメチャンなのよ!)

彼らが居間へと向かう気配を感じ、彼女もそちらへ急ぎ出す。瞬間、廊下の方で剣戟と魔力の爆発が鳴り響いた。まずい。コトミネがサーヴァントを連れていれば勝ち目はないし、リンが先に逃走を選択してしまえば、今のわたし一人ではとても対抗できない。

縁側を抜け、居間を覗く廊下へと足を踏み入れる。居間の反対側、玄関へと続く暖簾の方を見れば、意外にもリンは応戦を開始していた。

リンの指先から黒い弾丸が放たれる。

揮える魔力をかき集めて援護しようと考えたその瞬間───身体を打ち抜かれたリンが、自分の方へと吹き飛ばされていた。


紅い閃光。彼女の腹に食い込んだ剣は、刀身から砂のように消えてゆく。

その姿は、何故か。

朝霧の森で息絶えた、彼女の従者に重なった。

───なんで)

なんで逃げてないの。なんで逃げないの。

明らかな致命傷を負ったリンは、それでも魔力をかき集めて応戦しようとしている。

(なによ、いくら聖杯が欲しくたって、あれじゃ聖杯を使うことだってできないのに)

心の中でそう反発しても、眼球からの情報はその思いを否定する。攻撃を紡ごうとするリンの口元からは鮮血が飛び散り、削れ落ちた肉は自分とは異なる本物、もはや立っていることが異常のその身体はまるで。

(確か、あの夜の)

思い出す。イリヤが最初の襲撃を仕掛けた夜。バーサーカーの連撃を受けたセイバーは、それでも血塗れた剣を杖に立ち上がり、死を目前にしたセイバーの前に、シロウは半身を犠牲に盾となった。

「聖杯なんて知らない……あの子は……!」

リンは倒れない。リンが守るのは。

───あ」

分からない。なんで。なんでリンが。シロウはセイバーに。セイバーはシロウが。バーサーカーはわたしの守りで、それから。

記憶の彼方、遠い雪夜の森。獣の群れの中で、わたしはどうして血を吐いてまで岩の巨人を動かしたのか。

(だって、それは)

喉が開く。固まっていた足が前に出る。


だってそうしなければ、

■■が殺されるのだと───


「もういい、やめなさい、リン……!」

混乱を言葉で振り払うようにそう叫ぶと、少女は居間の中へと足を踏み入れた。

「な、イリヤ───

何故そうしたかは分からない。だが彼女は凛の台詞を黙殺し、静かな足取りで言峰と対峙する。

「コトミネ、わたしを連れて行きたいならそうすればいい。この身体は聖杯だもの、儀式を行うというのなら断る理由はないわ」

死の匂いを纏った神父は初めて彼女に意識を向け、目を細めてその姿を見つめた。

「そうか、元よりアインツベルンの器とはそのようなモノであったな。よかろう、私とて凛を殺すには忍びない。おまえが抗わぬなら──

───っざけんじゃないわよ」

イリヤと言峰の冷たい会話に、赤い少女のか細い怒号が割り込んだ。

「アンタね……アンタを守るのはわたしの役目なの……! 余計なコトをしてないでさっさと逃げなさいよ……!」

「よ……余計なことってなによ。私は聖杯召喚のために行くんだからいいじゃない。リンだってシロウだって、わたしが聖杯だから匿ってくれたんでしょう? でももういいの。勝利者が誰であれ、今回のアインツベルンの望みは」

イリヤは出なかった答えを誤魔化すかのようにまくし立てる。

その辺りで、凛は本気で頭に来た。

「うるさいわね……! イリヤは士郎の妹なんでしょう!? あいつをまた独りにするなんて許さないんだから……っ!」

「な───

思いがけぬ台詞に、イリヤの思考は再び急停止する。シロウを独りにする、それはかつてキリツグがイリヤにしたのと同じように……?

────リン、いつ気づいたの。私がキリツグの娘だってコト」

凛の方も急に激情を収め、一瞬、後悔した様な表情を浮かべた。

激痛の波がその表情をかき消すと、それに圧されたかのように彼女は素直に答え始めた。

「セイバーからちょっとね。衛宮切嗣の名前と名門の依頼って話を聞いて……あとは簡単な推理だったわ」

もう声を出すのも辛いのか。

凛はそこまで言うと息を切らし、訴えるような瞳で銀色の少女を見つめていた。一方の言峰は打って変わった無表情で、二人のやり取りを傍観している。

「……リン、貴女なら分かってるはずよ。わたしはこの戦争の為に造られ、いずれにしても長くは生きられない。血が繋がってる訳でもないし、兄妹とかそういうコトを気にするのは無意味だわ」

イリヤの顔から子供らしさが退いてゆく。

「それに独りにするなって言うなら、リンの方が長生きなんだから。シロウはトオサカリンをすごく大切に想ってるし」

それまで凛の視線を受けていた赤い瞳は、そこで初めて微かに揺れた。

───それに、貴女がいなくなってしまったら、シロウが堕ちるのを止められるヒトがいなくなってしまう」

そんなワケの分からない予言を口にして、彼女は話は終わりと言わんばかりに言峰と向かい合う。

「さ、行きましょうコトミネ。儀式を始める前に、まずはわたしの城まで行って正装を用意しなきゃいけないけど」

淡々と告げる彼女に、言峰は歓ぶでもなく言い捨てた。

───衛宮士郎といいおまえ達といい、今回の連中は本当に詰まらんな。まあよい、真の娯楽はすぐそこだ。……それに正装ならば不要だ。私の目的は正純の聖杯などにはない」

言峰の台詞に、イリヤは異質の恐怖を覚えた。

この男は、聖杯の中身を知った上で───

「なに、どうせそろそろ頃合いだ。……良いタイミングだ、それ、最後の生贄が焼べられるぞ」

左腕の令呪に静かに触れた言峰は、預言者の如き神聖さで儀式の開始を宣言する。

「えっ、まさか、や、んっ───

イリヤの全身が大きく震える。彼女はそのまま両腕で自らの体を抱いて、がくりと膝をついた。

「……イリヤ、まさか今の」

もはや魔術師とは思えぬ少女の声で問う凛に、イリヤは無理に笑みを作って答えを返す。

「大丈夫、これは……ランサーだわ。セイバーはまだ生きている」

その言葉を最後に。イリヤのヒトとしての意識は遂に断線し、彼女はゆっくりと倒れ伏した。崩れ落ちるイリヤを無言で見下ろしていた言峰は、肩をすくめて最後の言葉を口にする。

「そういう訳だ、どうやら衛宮士郎とセイバーは生き延びたようだぞ。──無益な時間を空費した。これは私も急がねばならんな」

彼は軽々とイリヤを抱え上げ、そのまま縁側へと飛び退る。

もはや一切の興味を失ったかのように、振り返ることも、言葉を掛けることもなく、言峰神父は遠坂凛を黙殺して衛宮邸を後にした。


残された凛は、残された体力で士郎の帰りを待つ間、知らず独り呟いた。

──バカ。生きられないから何だっていうのよ。ホント、自分を勘定に入れないトコまでそっくりなんだから」

4: winter, wonderland

聖杯戦争後、冬の夢。

ふと気が付けば、いつの間にか白い闇は漆黒に世界を譲りつつあり、吹き荒ぶ風の音は静まり始めていた。

「もうすぐ夜明けか。雪も収まってきたみたいだし、朝になれば動き出せるわね」

彼女は柱時計を確認しながら士郎に頷きかけた。純粋なイリヤへの心配もあると同時に、彼女が無事であれば色々と隠蔽も面倒なのである。少なくとも捜索隊に同行し、行き先誘導から発見時の意識操作、イリヤの病院搬送阻止など、世間知らずの魔術師の尻拭いは大変なのだ。

「そういえば最初の話に戻るんだけど」

眠気覚ましのコーヒーマグを抱えながら、凛は時計から士郎に視線を戻す。

「士郎はどうなのよ。イリヤが心配な理由」

妹、という最初の理由では満足してないということか。……そう士郎は観念しながらも、なんとなく髪をかき回して言い淀む。

「確かに逆だな。あいつが本当に家族になってくれてたら、こんなに不安じゃなかったと思う」

アインツベルンの呪縛。聖杯を求める一族の妄執。そして衛宮切嗣という「裏切者」の存在。

まったく、と士郎は思う。

そんなコト、俺は全部わかってるのに。


イリヤは座り込んだ床から、高い窓の向こうに消えゆく星灯りを眺めていた。吹雪は止み、逆に辺りは耳が痛いほどに静まり返っている。

白い闇は夜明け前の深い闇に道を譲ったが、彼女にはもう、その開けた境界を歩んでいく力は残っていなかった。

この小屋は、吹雪のピークをしのぐには少しばかり脆かったのだ。結界の補強にイリヤは残った魔力と体力を使い果たし、そろそろ全身の機能が静かな悲鳴を上げ始めていた。

(最期ってこんなものなのかな)

白い闇の心地好さ。それは孤独であることの安心感。一人で生きて、独りで死ねるのなら、それはイリヤや母さまのような命のカタチには、この上ない安楽の座となるだろう。

(うん、今ならなんとなく分かるよ、母さま)

下がり始めた室温の中、彼女は壁にもたれてゆっくりと目を閉じた。気のせいか、何処か遠くで自分の名前を呼んでる声がする。

(あれ、でも、母さまはそれを、魅入ってはいけないって言ってたんじゃなかったっけ───


ふと、眩しさに目を細めた。いや、眩しくて目を閉じようとしたのだけど、目の前にシロウの顔があるものだから思わず大きく見開いて───

「あ───シロウ」

目に見えて士郎は安堵の表情を浮かべ、そしてすぐに彼女の白い顔の上に涙を零していた。

「イリヤ───良かった、本当に───

床に座り込み、壁にもたれたままの彼女の身体を士郎はそっと抱き寄せた。

「シロウ、えっと……なんで、泣いてるの」

「……ばか。イリヤが無事だったからに決まってるだろ……っ」

「ううん、だから、なんでそれでシロウが」

少しずつ戻ってくる意識の中で、彼女は普段ならば取り繕う無邪気な反応を忘れ、白い闇の心地のままに、素直な疑問を返していた。

その反応に士郎は一瞬息を飲み、やがて涙も忘れて力強く彼女の紅い瞳を見つめ返す。

「イリヤは俺の妹だ。兄貴は妹を守るものなんだから、守れなかったら泣くに決まってる」

───ダメだよシロウ。わたしはもうすぐ死んじゃうし、妹が死んだらシロウは悲しむもの。だから、そんなこと言っちゃダメだよ」

硬い拒絶。刹那、士郎は突き放されたかのようにイリヤから身体を離す。だが次の瞬間、士郎は彼女の頭をぱかん、と叩いていた。

「……大馬鹿野郎。イリヤはちゃんと生きて幸せになればいい、幸せなら長さなんて関係ない。その後は、───俺が一生背負ってやる」

それは、いつか夢に見た赤毛の少年の姿。

彼女は呆然とした表情で、思いつくままの言葉を口にする。

「わたし、人間じゃないよ。人殺しもしたし、それにキリツグなんて大嫌いだったし」

「とっくに分かってるだろ、そんなこと。最後のはちょっと困るけど、でも嫌いなところは教えてくれればいい」

「だって───

「だってもなにもない。おまえがいなくなったらそりゃ悲しいけど、おまえが幸せじゃないのはもっと悲しいだろ? それに───

士郎はイリヤの髪の上にそっと手を置いた。それは士郎が彼女から聞いていた、数少ない幸せな記憶への縁だった。

「ほら、切嗣もバーサーカーもいなくなったけど、イリヤは二人に会えたことを後悔してるのか?」

イリヤは赤い眼を見開いて考えた。否、考えるまでもなく、彼女は首を横に振っていた。

「ほらみろ」と士郎は再び笑顔を取り戻す。

「だったら、俺も後悔したりするもんか」

その言葉は彼女を打ち砕く。──今までこだわっていたのがバカみたい。シロウはとっくにわたしの全てを背負ってくれてたのに、わたしの方がそれを見ないようにしてきただけだった。

イリヤは初めて見せる表情で、衛宮士郎を真っ直ぐ見つめていた。幸せに生きるのに、資格なんて要らなかった。なら、わたしは、シロウを──

──あは。お兄ちゃん、それなら、これからいっぱいわたしが後悔させてあげるね」

今までの硬さを拭うかのように。

彼女は最高の笑顔と、悪魔じみた台詞で士郎の胸に飛び込んでいた。


蒼穹は既に高く澄んだ光を湛えている。

この小さな孤独の世界を囲んでいた雪の境界。

白い夜が明けたのなら、

一歩外へと踏み出そう───


名残の雪が、春の櫻に道を譲るにはまだ早い。

彼女の最高で最期の冬が、今始まった。

─YOU GONNA CARRY THAT WEIGHT.

あとがき -postscript-

実にお久しぶりのWeb小説公開です。

本編は2004年冬コミにて発行した「雪の境界」をWeb小説用に若干修正したものです。以下の書籍版後書きに書いたように、本来は消化不良だった面を加筆してお届けするべきなのですが、どうにも目処が立たないのでそのままでの公開とさせていただきました。ご了承くださいませ。

なおFateモノをWeb化するのは今回が初めてですが、やはりルビが難しいですね……。低解像度の方には見づらく、最小フォントサイズ等をご指定の方にはレイアウトがガタついてと、とにかく問題が多いのですが、それでも奈須作品からルビ要素は外せないのが悩みどころ。結局今回は書籍版のルビをほぼ全て転記いたしましたが、果てさて。

さて、以下に書籍版時の後書きを添付いたします。

お疲れ様でした、以上、お相手は維如星にて。Fate/staynight 短編小説「雪の境界」をお届け致しました。

消化不良───のっけからそんな台詞を言うのは本来御法度なのですが、今回はどうしても誌面の都合に振り回されました。予定していたページ数ではまったく収まらず、締切りの都合上削る余裕もないままにお届けするカタチとなってしまいました。いつか、どこかでこの「雪の境界」についてはリベンジをかましたいですね。……ええ、本来はなんと桜まで登場するはずでした。世の中では色々と言われておりますが、如星個人的には桜自身は好きなのです。彼女が舞台を張るHF ルートが文字通りの「消化不良」な辺りが、彼女の悲運ですよね……。

話が前後してしまいましたが、本書の基本発想は、サクラルートのペアとなるはずだったイリヤルート、それを新設することなく、既存ルートの中でイリヤの救済を図れないかと考え、生まれました。その根底には、サクラルートの理不尽さに対する反発がやはりあったと思います(笑)。ネタバレ編としては楽しくても、やはりFate/staynight の完結編としては力不足だったように思いますし。

一方で、セイバールートでちょっと疑問だったのが「凛が生き残る」こと。無論彼女が生き残らないと士郎君は英霊まっしぐらなわけですが、それにしても「あんだけズタボロにしても死なない」という点が、逆に緊張感を削いでしまった感がありました。そこで「なんで生きてたの」という理由を物語的に解釈してみたくなり、本編のあのシーンが生まれました。……元は2〜3ページ程度の予定だったのは秘密です。

2004.12.後書きより

【作品中のネタについて】

さて本作を皮切りに、既に在庫切れとなったFate系過去作品もWeb化して公開していければと思っております。予想以上に手間が掛かる事がわかってしまいましたが(苦笑)。またそろそろWeb限定の短編なども書いていきたいところです。

さて、それでは例によって以下、エピローグをどうぞ。

still more to go...

今でも、時折夢を見る。

銀色の髪の少女と過ごした冬。とんでもなく楽しくて、とんでもなくメチャクチャで、そしてほんの少し哀しかった冬の夢を見る。

その夢はいつだって、雪のように積もった桜の中に佇む彼女の墓の前で終わっていた。

悲しくはあったけど、あの時間を還したいとは思わない。セイバーと過ごした日々と同じく、イリヤと過ごした日々もまた───

───チャー、聞こえないのか? こちらストローハット、アーチャー・ワン応答せよ。繰り返す、直ちに応答せよ」

それで、目が覚めた。

生い茂る森の樹上で仮眠を取るのにも、もう随分と慣れてしまった。おかげでこんな姿勢でも寝過ごすくらい爆睡できてしまう。

「ヘイアーチャー、いい加減にしないと軍法会議でケツを蹴飛ばすぞ」とまぁ、ラジオの向こうは随分景気がいい。作戦本部ストローハットと言ったってコールしてくるのは馴染みのベックマンオペレーターだ。いい加減こっちのペースにも慣れただろう。

とは言え、自分に連続で声が掛かる時は十分に事態は深刻のはず。士郎が思考を巡らせていたのはほんの数秒、彼はイヤプラグに指を伸ばして送話をオンにした。

「アーチャー・ワンよりストローハット、聞こえてるよ。で、何があった」

「アーチャーワン、連戦になるがアーチャー小隊は作戦行動可能オペレーショナルか? 臨時要請ボーナスがあるんだが」

もちろん、アーチャー小隊なんて部隊は存在しない。指揮官の存在のみが知られている謎の傭兵部隊、その実体は彼の単騎行動である。軍事的に有益でありさえすれば、こんな地獄じゃ妖しげな傭兵にも食い扶持が与えられるものなのだ。

──ポイント452-764にて国連特殊部隊ユノコムが移動を開始した可能性がある。直ちにエリアに急行し、敵を捜索、殲滅せよ。こちらのコールサインはベックマン・ツー。触接部隊のコールサインはルフィ・ワン・ファイブだ、追加情報は彼らから聞いてくれ」

「アーチャーワン了解。直ちに行動を開始するコメンシング・オペレーション


我ながら乾いた人生だ、とは思う。

いつかセイバーが歩んだ英雄の道、切嗣が選んだ正義の味方。かつて二人が自分に告げた数々の言葉を、今ようやく実感を持って思い出せる。

今向かっている敵だって、本来は正義のために集められた軍隊だ。俺たちは単純に、限られた椅子に座らせる人間を選ぶ方法が僅かに違うだけの掃除屋に過ぎないのだ。

だが、それでも。

(結局世界と契約もしちまったけど、得られた力が守りの盾なら文句はないか)

虐殺で得られる正義はないと信じて進んだ道の果てに、自らが英霊となる結果が待っていたとは思ってもいなかった。──だが、それでも。

磨耗してゆく道程でも、自分の中に誰かの人生を背負ってしまったのなら、自分を無にすることなどできはしない。信じたものと、守るべきもの。彼女がそこにいる限り、俺は決して間違うことはないと信じてゆける。



最愛の妹で、生涯の姉貴だった雪の少女。

それは少年の荒野に立つ、大切な道標───

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