2001.12.21 18:00 P.M. "Mitsuki"
見上げれば、視界は白。
孝之と迎える、3度目の冬。橘町に雪が降るのは結構珍しい。思い出がいっぱい詰まったこの街だけど、ホワイトクリスマスだけは、私たちの日記には書かれていない。
……なーんていうとかっこいいけど、実際孝之とちゃんとクリスマスを過ごすのは、今年でまだたったの2回目。それでホワイトクリスマスばかりなハズがない。その1つ前のクリスマスには雪が降ったけど……その時の孝之は立ち直り始めてたとはいえ、まだ私と付き合うなんてことは考えられなかっただろうし。
雪。
2回目のクリスマスを迎える、孝之と私。
週間予報が正しければ、21世紀最初のクリスマスはそんな私たちに銀色の世界を約束してくれたらしい。
正直、2回目が来ることを疑ったこともあった。
ううん、疑ったんじゃない。自分の手で、その可能性を消してしまおうとすら思った、今年の夏。自分の醜い面を、嫌というほど見せ付けられた、夏。
やがて、3年続いた夏はようやく終わりを告げ、季節は巡って……。
でも私たちの想いは巡ることなく、私は相変わらず孝之の側にいる。
……そうでもない、か。
私たちは前よりもずっと、お互いの近くにいる。誰にも遠慮することなく、何かを隠すこともなく、幸せな時間を積み重ねているから。今ようやく、4年前の、あの時の純粋な孝之への想いに、巡りめぐって戻ってこられたから。
雪が、降る。
大気を舞う結晶が吸い込んでしまうのか、音が遠くになっていくような感覚はどこか懐かしい。空気の音と、水の音が切り替わるあの一瞬の静けさに、どこか似ている気がする。
足が地を離れ、視界がホワイトアウトする、あの一瞬に。
雨宿りならぬ雪宿りにと立った街路樹の下で、かじかんだ手を擦り合わせる水月。
彼女が孝之と一緒に買ったこの手袋も、今日の寒さの前には少々敵わない。
淡い粉雪には開いた傘を、軽く肩に乗せておくだけで充分払えるけれど、雪の煌めく街路樹の下はどこか幻想的で。少しは絵として映えるかもと思いながら、彼女は彼氏が来るのを待っている。
お互い仕事後の待ち合わせ。こんな時に、水月の方が早く上がるのも珍しい。
降りしきる雪を見上げ、彼女は何気なく懐かしいクリスマス・アルバムの一節を口ずさむ。
「どこかで見てますか あなたは立ち止まり……」
ゆっくりと辺りを覆う粉雪は、あの冬の『遙伝説』へと記憶を繋ぎ、水月の顔をほころばせる。
「……思い出していますか 空を見上げながら」
そしてこの微かな笑顔を共有できる相手が、今は3人ではなく2人なことにまで意識が到達し……笑みは消えた。
遙。もちろん今もこの街に住み、同じ空の下に存在する遙。
粉雪のように白く、そしてどこか暖かい、遙。
彼女も今、どこかでこの雪を眺めているのだろうか。
遂にただの一度も、想い人と冬を過ごすことのないままの彼女も。
「……I still love you」
それは水月の真実。と同時に、彼女が決して口にしてはならぬ、禁じられた言葉。
幸せな粉雪ではなく、無機質な白に包まれたままベッドから振り落とされた遙に思いが至ったところで……水月は思考のループを無理やり断ち切った。
(そういえばこの歌も、取った取らないの恋愛スキャンダルの後にリリースされたんだっけ……)
今も一線で活躍を続ける森川由綺に、数年前良き友人、善きライバルがいたことは、ゆっくりと人々の記憶から忘れられつつある。人気の絶頂で突然引退した緒方理奈。その裏には天才プロデューサー緒方英二の奪い合いがあったとも、謎の恋人の存在があったとも噂されたものだった。
例えこの世界のトップに立てても、所詮作り事の世界に取り残されて。
今でも、理奈を選んだ恋人を忘れられない……
その後リリースされたこの曲は、森川由綺が得られなかった幸せへの想いを込めていると噂されたものだった。
「……無責任な噂ね」
水月はそう思う。
確かに、一つの世界で頂点へ登ることは辛い。捨てなきゃいけないものもある。でも、それでも頂点を目指せるのは、幸せなのだ。未練を残して、仕方なく歩んで登れる道など、ないのだと。
そう思っている彼女からすれば
──
「どっちが幸せだったかなんて、わかる訳じゃないじゃない」
今はその由綺も、理奈も、きっと自分の道を後悔などしていないと思う。
今の自分が、自分の道を後悔してないように。
だからきっとこの歌は……
……でもやっぱり、赦しを与えるのは、裏切られた方。
全てを忘れ、幸せな明日を見ろ、というのは容易い。でも、それが親友であった以上……赦しを待つことしかできないのは、約束を守らなかった方、なのだ。
「……でも、私は赦しなんかのために、孝之といるわけじゃないからね」
もう、そう決めたから。
孝之が、そう信じさせてくれたから。
他人のためだとか、誰かに対する責任だとか、そんなものの為に自分の居場所を決めるのは、もうやめたんだから。
そんな水月の想いは呟きとなって、彼女の周りの空気を微かに震わせる。
「だって今私は……最っ高に幸せなんだから」
白い雪が街に、優しく積もっていく。
2001.12.21 18:13 P.M. "Takayuki", Intermission:
時間に遅れていくということは、常にオレの心に不安を呼び覚まさせる。
だからオレはなんとなく……走り出していた。
積もり始めた雪を、蹴りつけながら。
2001.12.21 18:15 P.M. "Mitsuki"
孝之のことを思い浮かべ、ぼんやりしていた私には……
自分の前一帯だけ、ガードレールがないことなんかには気づかなかった。
ましてや、それがつい最近の事故処理で撤去された後、まだ再設されてないなんてこと……知っているはずもなかった。だから、少し離れた位置から聞こえたブレーキ音にも、私はゆっくりと首をめぐらせただけだった。
雪で滑り、T字路を飛び出してくる車。
見ている間に、それを避けようとした車も派手なブレーキ音を響かせて……滑り出し、スピンし始める。
私の立つ、街路樹を目指して。
時がゆっくりと流れを止める。
頭が状況を理解しようと空回りする中で、身体も凍りついたかのように反応しない。
舞い落ちる雪が、空中で静止したかのように見え、現実感が失われていく。
(ふぅ……。今度は私の番、か……)
ぼんやりと心に浮かぶ、そんな間の抜けた台詞。
その刹那。
「もう二度と誰も……! 絶対にっっっ!!!」
不意に聞こえた声が周囲の時を引き戻す。
孝之の腕が、車よりも早く私の身体に触れ……全力で走り込んできた彼の重さが、彼の存在が、もはや声にならない咆哮と共に、私をそのまま弾き飛ばす。
──白。
舞い翔ぶ雪が、視界の全てを白で埋める。
降りしきる雪が、全ての音を遮断する。
白だけの世界で現実感を喪失したまま、痛みだけを頼りに身体を起こして……
……私の目は、焦点を合わせることを拒絶した。
たった今まで、私が隣りに立っていた街路樹が傾いでいた。
樹上に積もった雪が、振り落とされていた。
落ちた雪の中に、ひしゃげた車が鼻を突っ込んでいた。
赤く染まった雪の中に、見慣れたコートがのぞいていた。
純白に染まる時の中で。
2001.12.24 18:00 P.M. "Mitsuki"
孝之の怪我は、命に関わるほどではなかった。
昨日、事故から丸2日が過ぎて、彼は普通の病室に入室した。
……意識の戻らぬまま。
私は自分が婚約者であることを伝えて、今もここにいさせてもらっている。
静かな病室。
耳に痛い沈黙。
朝は一度晴れたというのに。
窓の外の雪の吹雪く音だけが、私の意識を外界に繋いでいる。
……まるで終わりのない迷路を彷徨っているような気分。あの忌まわしい夏の記憶が、次々と蘇ってくる。命に別状は無いと聞かされたときの安堵。意識が戻らぬと聞いたときによぎった不安。
そして孝之は、3日間眠りつづけている。
遙のときほど深刻じゃない、なんてことは分かっている。分かってるけど……あの時だって、明日目覚めるか、10年後に目覚めるか分からないと言われたのではなかっただろうか。
眠っているように見える孝之。
しかし命に関わらないとはいえ、重傷の彼。私には手を握ることすら許されない。
3日前に感じられていた、この上ない幸せ。
どうして? どうしてこんなに辛い思いをしなければならないの?
……幸せとは、斯くも儚いものなの?
(そうよ)
……はるか?
(辛いの?水月。楽になりたいの?)
(でもね)
(水月だって、そうやって私の幸せを壊したんだよ)
(私は、壊された上に奪われたんだけどね)
私を責める遙。……心に刺さった棘が見せる幻。
この夏以来、あまり見なくなっていたけど……でも、今日の遙は、少し表情が、違う。
(それにね……奪ったものはね、決して、根付いたりはしないよ)
(水月もね、だから辛いんでしょ?)
……え?
(本当は自分のものじゃない、って分かってて付き合っていくのなんて)
何……何言ってるの、遙。孝之は……私のものよ。
(本当に?)
(あなたがしたことは……奪って、しかも逃げただけなのに?)
逃げたなんて……
(孝之君は、私にさよならを言いに来てくれた)
(でも水月は……あのまま、逃げただけ)
(私の前から姿を消して)
…………
(やっと水月も傷つくことができたんだよ)
(今なら「私たち」の気持ちがわかるでしょう?)
(今度はどうするのかな)
(平君に逃げるのかな?)
(いつか孝之君が目覚めたら、2人のことを話そうって?)
そ……そんなこと私がするはずないじゃない!
私はずっと待てるもの!
(待たせなかったくせに)
……っ!
(水月は、誰かを支えたり、支えられたりすれば誰でもいいんだよね)
(でも私は孝之君じゃなきゃ、だめなの)
(だから……謝りにきてくれればいいんだよ)
(辛い思いなんかしないで、孝之君を返してくれれば、赦してあげるよ、水月)
馬鹿なこと……馬鹿なことを言わないで、遙!
私は孝之を……絶対に渡さないんだから!
(心に棘を残したままで)
(人を愛していくことなんてできるの?)
……遙?
心配……してるの?
(今もこうして私の幻を見て)
(いつか時間が、私が、あなたを赦すまで)
(水月は耐えていけるの?)
……そのことだったら。
──ようやく私は、薄く笑ってみせられた。
私は3年掛かって、やっと本当の自分の気持ちに気づけた。
もうあの事故の前に戻りたいなんて思わないほどに。
そう、気づけたの。遙を傷つけないで、幸せになることなんてできないって。
だからそれが、遙の許しを待つしかないとしても。
支えてくれる人がいる。支えてあげたい人がいる。……それは、決して遙の代わりではない、私だけができること。
(……水月)
そう思えた今なら……。私は、待てるわ。
(……そっか。なら、今は大丈夫だね……。じゃあ、私はもう行くね)
遙?
突然、遙の表情がひどく懐かしいものになる。
親友を本気で心配してくれた、誰よりも友人を大切にしていた、遙のものに。
(強くなってね、水月。私はきっと……また何度でも現れちゃうから)
心の底に刺さった棘が、消えない限りは
──
──気が付くと、私は椅子の上でまどろんでいたらしい。
そっと頬に触れると、涙の跡がそこにあった。
「……大丈夫だよ、遙。何度でも私の前に現われればいい」
静かだけど、力を込めた私の声が、この暗い部屋に響く。
「私は私の力で、孝之を……愛し続けていくから」
だって、それは遙を傷つけると決めたときに
──
「あなたが赦してくれるその日まで、決して振り返らずに」
それが、あの夏の終わりに、出した答えだから。
「……水月……?」
「あっ……孝之っ!」
孝之の微かな声。慌ててベッドサイドのライトをつける。
目を開いて私を見つめている孝之がいた。たった3日ぶりなのに、懐かしく、待ち焦がれた孝之の瞳が、そこにはあった。
「オレ……生きてる?」
「当たり前でしょ、バカっ」
思わず抱きつこうとして……かろうじて、手を孝之の頬に当てるだけで我慢する。
「ここ……今、いつだ?」
「……イブの夜だよ、もう。あ、ええと……日付変わってる。もう25日だね」
「そっか……ま、3日か」
孝之はそう呟くと、少しだけ遠い目になった。でも、またすぐに私に目を戻してくれる。
「予約、ダメにしちまってごめん」
「……バカ。私は……私は孝之が……」
病院の窓の外。
病院の白とコントラストを成すような暗闇に、窓明かりに照らされ吹雪く雪が見える。
病室は相変わらず冷たく静かだけど。
孝之がちゃんとそこにいるというだけで、感じられる暖かみがある。
「……いつか孝之言ったよね。私には恋人が眠ったままの孝之の気持ちなんてわからないって。あの時、私は分かるんだなんて言っちゃったけど……。今なら、その気持ちも、そう言った孝之の気持ちも……少しだけ、分かった気がする」
「……そっか」
そのまま孝之は、窓の外の雪を眺めてた。
そしてゆっくり……天井を向いて、何かを考えているような顔をした後、私の目を見つめてきた。
「えっと……つまり、もう25日になったんだよな」
「え? あ、う、うん。そうだけど……」
「メリークリスマス、水月」
「えっ!?」
突然の孝之の言葉に、一瞬反応に詰まる。
「イブの夜を一番大切な人と過ごす、ってのはさ。本当は、お互いの一番最初に、幸せなクリスマスが来たことを祝いあう為なんだとさ。他の誰かに、言われる前に」
何故だろう。
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれ出た。
一番大切な人。
その言葉を、一途な想いを、迷わずくれる孝之。
クリスマスの買い物も、ロマンチックなディナーも叶わなかったけれど。
2人きりの、初めてのホワイト・クリスマス。
……ああ、この人となら。
「メリークリスマス、孝之」
私は歩いていけるよ、例え棘が消えなくても。
静かに過ぎてゆく日々を生きて、
いつしか想いの届く、その日まで。