日々思いて溢れるを残すは此れ雑文也。

MACHINA EX DEO

如星的日々の雑文

今日の雑文:雑文十番勝負


お題:「名刺と時計」(紗代とマヤ)


トラットリア・アドリアーノの温い午後
維如星

初夏の温い午後。静かで薄暗い店内。
店の片隅に十年前からそこに座っているかのような、黒服の老人。カウンターの隅で欠伸をしている、人生に倦んだ給仕。開け放たれた扉から漂ってくる、温い温い空気。

目の前に置かれた、一枚の名刺。
ゆっくりと時を刻み続ける、私の銀の懐中時計。長針と短針が二度目のランデブーを果たし、私のエスプレッソはカップの底で干乾びきっていた。

───騙された、かな。

ここで焦っちゃいけない。そんなことは分かっている。
いくら待たされようと、店のマスターがくれた一枚の名刺を信じるしかない。この名刺を目の前に置いている限り、例え注文が尽きてもこの店を追い出されることはないし、……そもそも、ここを追い出されれば私たちは終わり。『仲介屋』を失った『掃除屋』の末路なんて哀れなもの。

私の今までのキャリア、その全てのコネを集約した、この一枚の名刺。
その名刺に約束の男が(無論、女かもしれない)手を伸ばすまで、私は焦りの素振りも見せてはいけない。……ええ、それくらい分かってるわ。

静かに、静かに、この世界で生きていく為の扉が開くのを待ち続ける。
身体に馴染んだ時計、聞きなれたはずの秒針の音が、私の耳に苛立ちを持って纏わりつく。


やがて。
僅かに傾いた陽射しがブラインド越しに店内を侵し始め、トラットリア・アドリアーノは閉店する。

「ここまで、かしらね」


隣の席にすら聞こえぬ程の小さな声で、しかしそんな呟きが漏れるのを止められない。
……生き残る道を必死で考え、絶望的に選択肢を潰しながら、私は席を立ちかけた。

───私の腰が浮くか浮かぬかのその刹那。
右袖に、微かな抵抗を感じ、意識が店内に戻ってくる。

「……マヤ?」


白いワンピースに身を包み、お嬢様然に落ち着いたまま。
マヤは私の方を見ることもしない。ただ黙って、ここに座り続けることを主張する。日頃寡黙な彼女が私の行動を遮ることへの驚き。……でも、この隣に彼女が座っていること自体、大きな驚きの結果だったことを思い出す。

「ふぅ……分かったわ、マヤ。あなたが何を感じたか分からないけど」


私の言葉は、目の前を覆った黒い影に遮られる。
その老人の指は、私の目の前に貼り付く一枚の名刺に触れていた。

「お待たせしましたね、紗代君」


抑えようとしても止まらない。私の目が不意の衝撃に見開かれる。
店の片隅にいたその老人こそが。見事に消されていた全ての気配が、今感じられる。……間違いない。彼が、紅大人ホンターレンその人。

その乾いたエスプレッソのように干乾びた指は、ゆっくりとマヤの方を指していた。

「不安要素のある相手とは取引をしないつもりだったんだがね」


恐らくは、日頃であれば千人単位の人間を凍りつかせるであろうその笑み。
しかし今、その笑みが驚く程自然に、私たち二人に向けられていることが肌で感じられる。

「……静かな子だ。おまけに私の殺気に怖じもしない」


隣の私にすら届かぬほど鋭く絞られた殺気の残り香が、今ようやく私の鼻腔を侵す。

「さぁ、名刺を受け取ろう。いい相棒をお持ちのようだからね」


初夏の温い夕暮れ。静かで薄暗い店内。

カチリと。
私の安堵とともに、銀の懐中時計が耳慣れた正時を刻んだ。

── fin.

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