その時、人は何を考え、何処に立ちたいと願うのか。
それは、一番想う人、場所であろうけど。
真実は、誰にも分からない。
君が望む永遠サイドストーリー
if series 01
時がそれを給うなら
「えっと……た、ただいま、孝之君」
あれから3年の時が流れ。
遙は再び、オレの部屋にやってきた。常に痛みと繋がっていた、この部屋に。
「……おかえり、遙」
決して短くない時間を静かな眠りで過ごした遙の身体。
確かに大人びてはいるものの、時の刻みを受けていない初々しさ、あるいは儚さがある。ましてやその心は、オレに追いつこうと必死で成長しようとしているけれども、やっぱりまだ18歳の遙のままなんだ。
片やオレは、3年の月日を明確に、そして悲しい形でこの心身に刻み込んでいる。……そのオレには、遙の純真さは……少し怖い、のかもしれない。
そんな気持ちを出さないように、何気なく遙を迎え入れる。
「あの受験勉強のとき以来……なんだな。遙がこの部屋に来るのも」
「あの、って言っても、私にとってはついこの間のことなんだけどなあ……。心のどこかでまだ、受験の時期にこんなことになってどうしよう、なんて考えてたりするんだよ?」
そう言って苦笑する遙。
オレは台所から麦茶を汲んで来ながらの、普通の会話。まだまだ厳しい暑さ、コップの結露に指を滑らせそうになりながら、ぼんやりとした思いを言葉にする。
「そうだよなぁ……。でもまたこうして一緒に歩いていけるんだ。あの夏の再開、って意味じゃ、ついこの間って感覚も悪くないかもな」
何気ない一言だったけど、返ってきた返事は真剣だった。
「え、だめだよ孝之君。……孝之君には、3年の時間があったんだから。いろんなことが変わっちゃって……私たちは、決して帰ってきたわけじゃないんだから……」
……。
まったく、眠って過ごしてきた遙の方が、しっかりと時間を認識しているなんて。どこか寝惚けた自分にカツを入れとかなきゃな。もちろん遙にしてみれば、毎回言葉にして認識しておかないと、まだ実感として湧かない現実があるんだろうけど……
「3年、か……。決して短くない時間……」
「うん、私がこの部屋に戻ってくるまでの時間……。私の知らない時間」
遠い目をして呟く遙。
遙はそのまま少し考えたような顔をして、一呼吸置いた後……口を開いた。
「そうだ、えっと……この3年間……孝之君は、何をしてきたか、聞かせて欲しいな……」
思いがけず触れられた話題に、オレは思わず表情を硬くする。
でも遙は優しく笑って、オレの方に手を伸ばしてきた。
「いいんだよ孝之君……。私は、知りたいの。自分の好きな人の時間……。埋められなかったアルバムのページに、何が入っているのかが知りたいの。それが、決して優しくない時間だったとしても、ね」
優しくない時間。
水月。
……オレにとって、この3年間はそれは辛いものだった。でも、その後半は優しくなかったか……と言われると。それは、自分の過ごしてきた時間を否定してしまうような気がする。
「優しくない時間……か。オレは大学も諦めて、フリーターやってて……。でも、そうさ、オレはその最後の1年半を、水月と過ごしてきた。その時間は……ただ辛いだけの時間じゃなかったことは、確かなんだ」
遙の前で、ゆっくりと言葉にする時間。
遙が眠りについてから最初の1年間、オレがどう生きてきたか。水月が、どうオレの人生に入ってきたか。そして遙が目覚めて、時間の認識のない遙を中心にして、オレたちの時間がどう壊れていったかを……
嫌なことを話している気持ちはなかった。
遙に罪滅ぼしをしている気持ちもなかった。
ただ、自分が一番愛する人に、自分の記憶と言うアルバムを見せたかっただけなんだ。
奇妙に新鮮な感覚があった。水月のことは、散々遙に話してるはずなのに。
そして遙は、その全てを真剣に聞いてくれていた。
……遙はいつだってそうじゃないか。
例えそれが自分に辛い話でも、自分を傷つけるかもしれないと分かっていても、それでも想いを伝えたがる。想いを伝えて欲しがるんだ。
その遙にオレがしてきた事……それは、正しいものだったんだろうか?
オレはどこか頭の中で、奇妙な引っ掛かりを感じていた。
「……なあ遙。どうして遙は……それでも、オレだったんだ?」
急に話を振られ、きょとんとしている遙。
「お前の時間を奪った、幸せを壊したオレなのに……。今なら、お互いの気持ちが通じてるから、遙がオレを好きでいてくれることも、心で感じられるんだけどな。でもあの時、あの病院で……どうして、それでも、オレだったんだ?」
遙の少し考え込むような表情。それは3年前と変わらない、可愛い表情。
……変わらない?
……まただ。この違和感はなんなんだ。
「うーん、そうだなあ……。私にとっては、先週までずっと好きだった人だから……ってのは、当たり前だよね。でもね、本当にそれだけじゃないんだよ……」
「ん、どういうことだ?」
「孝之君が、私のところに来てくれたから。孝之君には3年の時間が経ってるのに、……その時は水月もいたのに、私のところに来てくれて……」
ついこの間のことなのに、懐かしむような表情の遙。
「あの時の孝之君には、……私は、友達だったのかもしれない。でも、孝之君は来てくれた。友達を大切にしてくれて。私の前で、涙すら流して……。病院で、知らない時間で、独りで、泣きたいぐらい寂しかったから……すごく、嬉しかった……」
遙が、オレの手に重ねた手を強く握り直した。
「だからあの時ね、また孝之君の一面が見られて、3年経った孝之君の心が見られて……私は、もう一度あなたが、好きになったんだよ」
オレの心が大きく跳ねる。
あの日の告白を、もう一度されているような感覚。胸を締め付けられるような、でも暖かい遙の気持ち。
でも、なんだろう。心の奥底のどこかに、その暖かみの届かない一点がある。
……オレはその棘を溶かしたくて、思わず遙を抱きしめた。
「遙、だってオレは……オレには、遙を忘れることなんてできなかったんだ……」
水月には感謝してる。本気で愛してたのも嘘じゃない。でも……どこかで、悲しみが消えなかった。いつもオレと水月の中心には、遙がいた。心の何処かに、遙という重心があったんだ。
いつしか思わず叫ぶような声になっていた。……いや、絞り出すような、と言うべきか。
「そうさ、オレの心に遙がいて、そこに遙がいる限り……他の人を心から愛することなんてできない……! お前といる時だけが、純粋に相手を愛していられるんだ。相手のこと以外考えないでいられるのは、遙の前だけなんだよ……」
それは、遙が心から理解することはできない感情なんだろうと思う。
見ることができるのに触れることのできない、そんな絶望と過ごした時間を持たない遙には。そんな絶望を抱えて、それでも誰かの隣を歩いたことのない彼女には。
あるいは、失うことをあえて恐れない強さを持つ、遙には。
でも、この3年で傷つき、弱さをさらけ出したオレには
──
「全てを忘れて、相手の想いだけを感じていられる人は……遙しか、いないんだ」
不意に訪れたほんの小さな沈黙。やがて、遙はゆっくりと口を開いた。
「じゃあ……もしも、だよ。もし私がいなくなったら……孝之君は、どうするのかな……」
「え……?」
な……何を言ってるんだ、遙?
そして遙は優しい笑みを浮かべた。
仙女のような、柔らかく、まるで霞の中に消えてしまいそうな、儚すぎる微笑。
「もし私にまた何かあったら……今度は助からないかも、しれないんだよ?」
(そのとき孝之君は、誰を、どうやって愛していくのかな──)
耳障りな電子音が頭の芯を刺す。
深夜に一度手に取った目覚ましを探そうとして……それが電話の呼出音であることに気がついた。現実からやってくるその音が、頭の芯から夢の残滓を追い払っていく。
夢?
遙が退院して、この部屋に来たときの……
いや、遙がいつかこの部屋に戻ってくるときの……?
……今の自分を認識できないまま、取りあえず電話に手を伸ばす。
目に入った時計の指す時間は、……まだ午前8時だぞ?
まったく、こんな早い時間に……
……早い時間!?
そうだ、オレは昨日、あの事故の前日の夢を見て、不安の中でまた眠り……
……そんな、馬鹿な。でも、こんな時間に掛かってくる電話は……
(この次また何かあったら……)
取りたくない。
そんな感情が指先に伝わる前に、オレは受話器を上げていた。
「もしもしっ!?」
「欅総合病院の香月と申しますが……鳴海孝之様のお宅でしょうか?」
「え……? 香月先生?」
(そんな……ことが……)
「あ、鳴海君……。朝早くにごめんなさい」
(そんなことが。オレは、どうやって……)
「ご家族の方から、あなたにも教えてあげて欲しいということでね……」
(まだ、オレの時間を、伝えていないのに……)
「……聞いているかしら。落ち着いて」
代えることのできない相手。それに気づく時は……いつも。
「涼宮遙さんが……息を引き取られました」