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如星的茶葉暮らし

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2008-06-12-木】

ひまわりレビュー(2):小さな傑作、大きな物語

前回からだいぶ時間が空いてしまったけど、同人ゲーム「ひまわり」の総評をキチンとまとめきってみよう。

なお、流行る流行らないの評判ゲームに対するスタンスは「水の惑星は静かに泣く」で語りきっているのでこれ以上は触れないが、一つ総評と合わせて付け加えるならば、「ひまわり」は「小さくまとまった傑作」であり、大作主義・誰も彼も主義に抵抗し得る一つの道を示したように思う。……文章後半にはだいぶ贔屓目が入ってはいるけれど:)、一方で本当に、こういう作品に続く良作が出て欲しいと願っているのは事実なのだ。

ループによる循環構成と異物環の挿入

さておき。自分が前回一章の評価を交えて語った「シナリオと構成で魅せるゲーム」という評は、何度か作品を読み返した今も変わらず、「ひまわり」の魅力の根源だと思う。前回の繰り返しになるが、「何周」という言葉が示すとおり、ひまわりは2周目を除く4周を同一時間軸の繰り返しで語る。それはヒロイン攻略型の同一時間軸ではなく、あくまで周回のたびに新たな事実や細部が「ひまわり」という物語に書き込まれていく、といった形式だ。

これは「Fate」でお馴染みになった手法(聖杯戦争という同一の時間軸を、Fate/UBW/HFと固定順でループする)なのだけど、Fateのように分岐・差異を巨大にはせず、可能な限り「同じ時間の同じイベント」で進行することにより、一つの物語を丁寧にしゃぶりつくした感覚が得られると思う。Fateが序章で凛が語り始めた世界を外側へ外側へと広げていくのなら、ひまわりは一章で作った世界の枠を内側へと詳細化していくイメージだ。

巧いなと思うのは、その「ひまわり」の世界、宇宙とルナ・ウィルスに囚われた人々の物語を埋めていくに当たり、その背骨として「別時間・別視点」の2章を組み込んでいる事。小説では一人称形式であっても場面ごとに視点を変える手法は普通に使われているけど、そういえばギャルゲではあまり見なかったな、と。そういやFateも「interlude」という「(ギャルゲでは)ありそうでなかった」方法でこれを実現していたし、物語を構成するループの一つだけを丸々別視点に変えてしまう手法は、まさにシンフォニック=レインのそれである。いずれの作品も共通して、単に背景を知る攻略キャラが増えるだけのギャルゲフォーマットに留まらず、ループごとに情報を盛り込む構成で面白さを出しており、その際ループに異物を入れることで循環だけでは知り得ない情報を円環に持ち込み、深みを出している点も共通している。固定一人称のシナリオ同士が密接に絡む類の魅力(e.f. 君望の遙ルートと水月ルート)とはまた少し違った、一層一層色味の層が増えていく版画のような面白さだ。

ただし、初回の英雄譚を見事に2周目のアンチテーゼに使ってみせたFateの壮大感や、異物環自体を物語の幕引きに使い、表裏一体の合わせ鏡でありながら異なる結末に導くSRの巧妙感を「ひまわり」は持たない。2周目を背骨として、基本的に重なるのは1周目と3周目のみ。4周目の明香編は全体を一つの環と見立てたときのエピローグであって実はループの一部とは少し異なる(そのこと自体は評価高いのだが)。つまり重なる楽しさは、3周目の1回で終わりであり、それ以上の期待を持つべきではない。しかし一方で、個人的にはそれ自体も一つの魅力ではないかと思う──以前も触れた「必要最小限のシナリオ量」であっても、このようなループフォーマットの物語を構築し、読み手を楽しませられるのだという魅力だ。これが最初に述べた「小さくまとまった傑作」という評の所以の一つである。

大きな円環構造

1周目でロケットの町と夏を舞台にした「スタンダードなボーイミーツガール」を描き、2周目で舞台を宇宙、視点をアクアにガラリと変えて「物語の背骨」を描き、3周目で舞台を戻して「スタンダードナンバー」をガラリと「アクアのための物語」にアレンジ、過去と犠牲の上に立つ幸福の是非を問う真骨頂に仕立て上げる。

これに続く4周目は同じ舞台でありながら、明香という「残ったヒロイン」に手を伸ばしつつ、西園寺明という敵役に等しかった存在の視点を織り込んで世界説明を補足していく、ある種平凡なエピローグ──と読んでしまうのは余りにもったいない。確かに明香個人は如何にその背景が語られようともちょっと平凡なヒロインでしかないのだが(苦笑)、西園寺明を通じて主人公たる陽一が触れていくのは、1周目で語られた「少年は、宇宙を目指す」物語。後日談めいたキャラの心情を描きつつも、4周目ならではの主張をもって1周目の「はじまり」にテーマを還し、アクアの運命論に突き抜けた物語をくるっと丸め、全体を「星空・宇宙・まだ見ぬ世界への旅立ち」という大きな輪っかに完結させているのだ。

この「物語が最初に還る」という構造に如星はとても弱い。月姫空の境界然り、マルドゥック・ヴェロシティ猫の地球儀などのラストシーン、エピローグを本編に還すマブラヴオルタ、etc.etc. 物語が大きな輪を描くことで、感じられる余韻は拡散せず永遠になる。ツボなんだなぁ。

と、これだけでも「巧いな」と思うのだが、更にこの後に「TIPSエンド」がやってくる。バッドエンドを見ることで増えていくミニシーン集、本編で扱いの少ない「葵」の補完エピソード──と思いきや、最後の最後で登場する「アリエス」の物語に、如星は月姫の「月蝕」にも似た衝撃を受けた。「月蝕」はマルチエンドの物語に本来ありえない「全てをまとめるエンド」を作り出した、如星が今でも最高に評価している「エンド」であり、かつ他でもない「志貴本人のエピローグ」を描いた代物である。

そしてこの「TIPSエンド」は、全てをまとめることこそできないものの、「己/個を以って運命に打ち克つ」というテーマの最後のピースとしての役割と見事に果たしている。思えば、3周目はアクアの物語であると同時に、アリエスの真骨頂でもあった。この話はキャラレビュー編で詳しく触れたいと思うが、さておき、そのアリエスに「勝利」の一幕を与えられた瞬間、遂にこの作品の主要人物全てが運命に勝利するのである──これを「ひまわりのエピローグ」と言わずして何と言おう。後はフラグ回収ぐらいかと気を緩めたところに放たれる、まさにシナリオライター会心のクリティカル・ヒットである。つくづく、この作品は構成が巧いなぁと思う次第だ。

さて、これで構造の話はとりあえず終わり。小難しいネタからようやく離れ、最後にキャラネタを少々綴って終わりにしようと思う。レビュー(3)「真打・アクア&アリエス」に続く(予定)アクアかわいいよアクア

(2008/06/12)

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【2008-06-14-土】

秋葉原の定期巡回

結局先週の秋葉巡回は中断してしまったし、今週は仕事が何故か鬼のように忙しく帰りに寄る時間も体力もなかったので、今日は改めて午前中の秋葉巡りに出てみた。もちろん、献花台に手を合わせるぐらいはしようと思いつつ。

……献花台の周りには、まもなく1週間になる今日もそれなりに人が集まっていた。その場所が目に入った途端、何故か急に息苦しくなり、最初は思わず手前で曲がって避けてしまった。軽く買い物をしてから改めて献花台の前まで行ったのだが、やはりどうしても直視できない。軽く手を合わせ、ほとんど逃げるように自転車に跨って秋葉を後にした。無駄に動悸が速まり、息苦しい。

一週間後でもデカいカメラが三台ほど回っていたが、別にそれのせいという訳でもないと思う。献花台にデジカメを向ける人をみても、別に何も思わない。ただそうではなく、もう自分の中で、あの日、あの事件が「嫌な記憶である」という紐付けが感情面で強固にできてしまっていて、理屈をすっ飛ばして胸苦しさを再生してしまうんだろうな。

秋葉でお気楽にするには、もう少し時間が掛かりそうです。

(2008/06/14)

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【2008-06-17-火】

超主観的なレビューよドンと来い

ゲームに限らず、小説等何か作品に対するレビューで一番如星が読みたいと思うのは、「とても主観的に、ただし主観であることを心得て書かれたレビュー」である。これは同時に自分が書くときに心掛けていることでもある。

これは「批評は客観的」にという通説に思い切り反してるんだけど、素人が客観性を発揮するのが難しい作品批評で、かつ所詮「one of them」でしかない作品レビューにおいては、かつ主観結構大いにアリだと思っている。偏った視点は偏った視点なりに自分にはない観点を明らかにしてくれるし、たとえアンチ的な批判であってすら、相手が何故そういう批評を書いたのかを想像することで、欠点のみならず逆に作品の魅力に迫ることもできる。主観的なレビューが2つ以上あれば、それらの比較で作品を更に立体的に味わえる。「違った読み方」には、面白さのみならずアンチすら含んで良いと思うのだ。

……って何のことは無い、これってネット上のレビュー読みが自然にやってることに過ぎない。単一のレビューを盲目的に信じる人などいないだろう(と信じたい)。妙な空気が醸成されちゃって、そこに反するレビューが書きづらい……という状況はあるかもしれないけど、そこに堂々アンチなり別視点を放り込んでくれる天邪鬼野郎(誉)に事欠かないのがネット界隈の良さである。

だから、むしろレビューを書くときには「主観か客観か」を気にするより、自分の主観が何処にあるのかが明確になっている方が重要だと思う。文章内でもある程度示すのを基本として、あるいはブロガーなら過去の積み上げで提供できる「主観」もある。いずれにせよ「こういう視点の人が書いている」と明確になっている方が、最初から別視点を得る楽しみを読み手が味わいやすい。主観であることを心得ているレビューなら、己の意見が皆の意見であるべき!というような鬱陶しい独善とも無縁でいられるしね(逆にそういう「主観レビュー」は批評としても読み物としても失格だ)

後は「感情論」に走り過ぎず、ある程度の論の一貫性を持ち、主観で断言するときの根拠(根拠自体も主観的でOK)を挙げておけば、読み手も「そういう視点ね」と納得しやすい。あくまで「過ぎず」「ある程度」と限定をつけているのは、「レビューを書かせるに至った感情やファーストインプレッション」を排除しすぎてしまうと、途端に「変に客観性・中立性を気取った」駄文になりがちだからだ。書こうと思った衝動こそは主観の出発点なのだけど、変に論理でこねくりまわしてしまうと書き物全体がブレてしまったりする。最初の動機をメインテーマとして維持するってのも、結構重要なことだと思うのだ。

ほら、萌え萌え叫びつつも言うべき事はキチンと言っている──そんなレビューってグッと来ませんかね?:)

と、またも自省する

いやー、前も「オルタ」のレビュー初回を書いた後に似たような自省の愚痴を書いてしまったのである。

前回のひまわりレビュー(2)がまたその罠に陥っている気がしてならない。そもそもあれはレビューじゃなくて分析だよなと思いつつ、どうも如星は物語を理解する上で「分析文章を書いてみる」というのが半ば前提となっている気配もある。他者に対する「レビュー」は「レビュー」、自己に向けた「分析」は「分析」として、タイトルもきちんと書き分けるべきだなぁ。……ま、次回はキャラ萌え語りの予定だから大丈夫だろう(苦笑)

レビューアを「選ぶ」所はとても重要

ちなみにこの辺りにはほぼ賛同しつつ、ゲームに限らずあらゆる趣味世界において、レビューに依存しすぎると開拓精神が失われてしまう危険性もある。これは如星の飲食趣味でも多々経験しているところだ。

だからラルフ氏曰くの「自分が信頼できる人」って点はとても重要で、レビューアの「主観」をしっかり吟味して、自分の頭で考えて、そして「信頼」と呼べるにまで至ることで、そういう思考停止を防いで行けると思う。「自分が信頼できる人がお勧めする作品」という選択を一歩間違うと、それは容易に「みんながお勧めする作品選び」に変質してしまうので。

(2008/06/17)

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【2008-06-18-水】

ThinkPad X60の「プレゼンテーション・ディレクター」

同じ死者を出さないためにメモ。自分はThinkPad X60使いだけど、Tシリーズ等でも類似例がある模様。Fn+F7で表示させる画面出力先の切り替え機能「プレゼンテーション・ディレクター」が一切上がらなくなる症状に出くわした。上がらなくなるだけで押すたびに出力先を順次切替できる状態と、順次切替さえ使えない(何も起きない)状態がある。なお如星はいきなり後者にハマってしまった。

最近の如星は仕事中プロジェクタ出力を使いまくりなので、これが解消するまで寝ることすらできず……。ダウンロードファイルは解凍してもリリースノートやバージョン番号の分かるファイルは同梱されてない上に、ファイル名からバージョン名を察することができないネーミングルールのため、自分がどのバージョンを落としたのか、朦朧とした頭では把握できなくなってきて延々試行錯誤、その度に再起動で待たされるという循環に……。

チャイナ化以来ハードウェアの造りとしては既に見限り始めているThinkPadだけど(劣化した部分を書き始めるとキリが無い)、ソフトウェア面でもこの体たらくとは。一応自分も10年以上のThinkPadユーザーなだけに、なんとも悲しいモノを感じてしまうね……。

(2008/06/18)

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【2008-06-19-木】

分析レビューを書く理由と二次創作の原動力

そもそも漫画や小説のときとは違い、如星がギャルゲー系に対して単なるレビュー以上、過剰なまでの分析めいた長文を書き連ねるのは、半ば無意識のうちに二次創作を前提としているからだと思う。いや意識して頑張ろうと書いてるんじゃなくて、そういうことをするのが楽しいから、ではあるのだけど。

そういった分析は本来自分の中だけでこなしていてもいいんだけど、やはり「他人に読ませること」を意識して文章化することで、自分の頭の中も自然とある程度整理され、構造化されてくる。またこういった分析の過程自体が、他の人にとってそれなりに読み物になっていれば嬉しいのも確かだ:)

ただ、この手の書き物は個人的に「腑分け」と呼んでいる程で、作品と共に自分が作品に抱いた感情もかなりの部分が解体整理されてしまい、「何だかよく知らんけど楽しかった!」という幸せな状態が消えてしまうのはちょっと寂しかったりもする。そういった幸せな感情はそもそも二次創作を続ける原動力そのものであり、先の日記に書いた「ファーストインプレッションを忘れるな」という原則はその点でも重要である。

加えて、作品をバラす前の感情とは、大抵は自分の二次創作の読者たりうる作品のファンが抱いた感情でもあるだろう。それを忘れちゃ、同じ作品を愛する同志が求める文章など書けなくなってしまうと思う。作品に捧げる、同じ作品を愛した同志に捧げるという基本原理に従い、独りよがりにならないためにも、最初の感情ってのは大切なことだと思うのだ。

(2008/06/19)

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