VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
別にいたずらに懐古趣味があるわけではないけれど、それでも飲食、酒、茶の面において、長い歴史に裏付けられてるモノってやはりそれなり以上の旨さを持ってるモンだと思う。香りモノについても似たような事がいえるかも。それは和洋問わず、いわゆる伝統食であったり、長く作られてきた酒であったり、茶であったり。SMNなどの香りモノもそうだし、マリアージュフレールやクスミが生み出してきたフレーバー系の紅茶もそうだ。
それはもう伝統がどうのこうのではなく、純粋な
そんな裏打ちされた伝統食を指す「スローフード」という言葉に対する日本人のイメージで一番腹立たしいのは、何故かロハスだのエコだの健康だのというキーワードと結び付けられている所だ。元々の「スローフード」は「食の多様性を守ろうぜ」「つーか旨いんだよこいつら」という実にシンプルな理念でしかない(大元のスローフード協会サイトには、healthという単語は一度しか登場しない!)。マクドが悪いと言うのではなく、マクド一色になるのは悪いという発想であり、何より「旨い」が最大のキーワードなのである。
大体伝統食は身体に悪い(この表現も微妙極まりないが)かもしれないし、耕作法はエコ(これも胡散臭いな、環境負荷とでも言い換えるか)ですらないかもしれない。イメージ論で言えば、フォアグラなんて虐待でしかないかもしれない(これを虐待というのは実に薄っぺらい倫理だと思うが)。ロハスに至っては単なるマーケティング用語なので(そういうモノを好きそうな先進諸国の小金持ちを狙うとウケるよ!というのが本来のロハスだ)食い物に当てられるのは不愉快でしかない。
とどのつまり、俺は旨いものが好きなのだ。長く裏打ちされたものに舌がついていかないとき、俺はそこにまだまだ精進の余地があると思っている。「誰にでも旨いものが本当に旨いもの」という、一見単純な真理のように聞こえるが、冷静に他ジャンルに当てはめてみれば真理でもなんでもない暴論と分かる代物を俺は信じない。……まーでもぶっちゃけ、最近「ついていかない」なんて感じること、ないんだけどね。旨いものは、旨い。それを開拓していく道は、ひたすら楽しい。
とある駅前を歩いている時、右翼系街宣車がこれから一発ぶち上げるのか、まずは黙って「君が代」を流し始めていた。その時「それが君が代であるにも関わらず」、思わず立ち止まって姿勢を正さねば、いや右手を左胸に当てねばと反射的に考えている自分がおり、またそんな自分の条件反射を面白く眺めている自分自身がいたのである。さらにそれに気づいてからもなお、知らぬ振りをして歩き続ける自分に少なからず抵抗を感じ、感じたことに驚くという三段構造がそこにあった。ああ面白い(四段目)。
もちろん、これはアメリカ時代の完璧な刷り込みである。星条旗よ永遠なれ──アメリカ生活において、国歌を聞く機会は日本のそれより格段に多い。コミュニティに溶け込むために真似していた行為がいつしか習慣となり、これがいわゆる「自然な敬意」という奴かと、帰国後十年経った今になって思わず苦笑してしまった。どっちかといえばパブロフの犬かもしれないぐわ。
如星個人の意見としては、国歌だの国旗だのに敬意を払えと「求めていく」のは、国家ちうシステムを採用して生きていく以上必要条件だろうと思っており、それが素直に叶わないというのは微妙にもどかしい。そこに全体主義化だの何だのというトラブルがついてくるのも分かるけど、まぁそりゃ「副作用」って奴だろうと思うので、副作用ばかり恐れても仕方ないよなぁ、むしろ副作用をコントロールする術を探すべきだよなぁとも思うのだ。ま、完全否定派が国家に変わる幸せなシステムを提案・実現してくれるもんなら喜んでついていくかもしれないのだが。
そういえば余談ついでに、私の叔母は天皇制など糞食らえと(軽度に)思っているらしいのだが、あるとき浅草辺りで偶然皇后行幸に出くわした時、警護の中を歩いてきた皇后陛下を見て思わず手を振ってしまったという。果たしてこれはパブロフか、それともマイン・カイザリーンのご威光か:)
昨日は都内に転居してから初めて、横浜で馴染みのトラットリア「プレチェネッラ」に足を運んだ。その変わらぬ満足度、楽しさに脱帽である。
元々横浜方面に出る用事があり、ついでにダメ元で直前に予約を試みたのだけど、案の定満席。悔しいので隣の姉妹店ピッツェリア・マシケラに予約を入れておいたのだけど諦めきれず、挨拶がてらプレチェ側にも顔を出したところ……なんと一席空きができたとか。\まさに僥倖という他はない:)
毎度ながら感じていたことを、しばし他の店を巡って戻ってきて改めて認識し直したのだが、プレチェはメニュー全体の組み方が本当に巧い。王道で無難なイタリアンを好む人間にも、如星のように食材や組み合せの面白さを求める人間にも、等しく「選ぶ楽しみ」が得られるよう配慮されているし、更にはそれをフロアの人がキチンと解説し、雑談の中からお勧めを引き出してくれる、あのトラットリアならではの楽しみも提供されている。思うに、刻々と変わるメニューはその店の最新の顔であり、同時に客が食事というイベントで最初に触れるタイトルテーマのようなモノである。ここでワクワクできないと、その後の食事も何となく流されるままに終わってしまったりするものだ。
……失礼ながら、最近オーグードゥジュールでご馳走になる機会があったのだけど、面白みのあるスタッフは新丸ビルの新店に移ってしまったからか、だいぶ大人しめの、悪く言えば面白みに欠ける店になってしまっていた。いや味は折紙付だし、フレンチ等を食いつけない人でも安心して連れて行ける良店ではあるのだが、もうメニューを開いた瞬間からしてその「大人しさ」が滲み出ていたのである。ちと残念なところだ。
そういえばつい先日、馴染みのバーテンさんが「フレンチでもイタリアンでも、特にランチは私の評価は、ほぼパンで決まってしまうのですよ。食事への期待を高めるプレリュード、一番大事なところだと思うんだけどなあ」
と、似たような事を言っていたのを思い出す。最初に見たときは流石厳しい視点だなぁと思ったものだけど、僅か数日後にこうして再認識してみると、食事という愉悦への期待を高めていく大切な部分という意味ではメニューもパンも同じ位置にあり、まったく自然と納得の行く話であったのだ。
ちなみにプレチェネッラのパン、胚芽の香りが強く漂うバゲットなんだけど、これがまた旨いったらない:) 最近転居に伴い「馴染みを決めるべくパン屋の食い比べ」なんてのをしてたおかげか、パンの味に対する感覚が少々鋭敏になっていたようで、以前よりもその旨さを強く実感できてしまった。まったくこの意味でも、プレチェは本当に受け手の「楽しみ」をいや増してくれる貴重な店なのだ。これからも定期的に贔屓にさせていただきまっす。
今日の一滴="Grappa di Brunello" (2008/03/30)