この2ヶ月ほど如星を悩ませていた仕事が山を越え、よーやく一息。
仕事後に物書きしたりゲームに手を出したりという時間が取れないのはかなり辛かったし、電車内の読書タイムすら疲れて寝てしまうことが多かったので、正直コミケ前から結構辛かったのデスよ。仕事のコトが頭から離れないし。ま、それらが終わった今、心地よい達成感があるのは確かですが、にしてもやはりどーしても仕事を生きがいにはできない如星。人生の楽しみは所詮プライベートの過ごし方に掛かっておりますのでね:) これでおさぼりサラリーマン復活と行きたいところです。
先日のコミティアで、忘れちゃならない重要戦利品。
コミティアお買い物紙袋数枚。ティアはもちろん、コミケでも手放せない、同人誌即売会最強の友である。
コミケ紙袋は耐水性はあるし頑丈だけど、近年はまた微妙に持ち歩き難いデザインである。そりゃーエロゲおにゃのこ全開の袋を東京駅でも持ち歩ける人々は気にならないのかもしれないが……(追記。今年はボイーズの美青年袋を堂々持ち歩く女史もおり、ここでもジェンダーの差は皆無であることが証明された(w)。そしていかんせん、何よりも大きすぎるのだ。スタンダードな紙袋サイズなのだろうけど、同人誌はB5サイズが中心だし、A4を入れてもなお大きい。本は縦に積み上げる訳には行かないので上部が無駄になるし、また積載量が少ないうちは中の本が不安定で、薄い同人誌はいつ折れるか不安でしょーがない。
その点、A4プラスサイズのコミティア袋は安心。落ち着いたデザインのクラフト紙造り、A4,B5の本がストンストンとすっきり入る上に、A4サイズだから当然「A5を横にしてぴったり」入るので、A5サイズのミニ本が中で動く心配などしなくても良いのだ。重量を積んでも、持ち手が布帯のおかげで手が痛くならないし、持ち手接続部分はハトメ止めで頑丈。厚みも10cm強と、大量購入でも安心───17000発の戦利品は流石に溢れたが───である。
元々過積載となる夏コミ、おまけに今年は雨に祟られたおかげでさしものティア袋も湿気でヘタってしまい、今回の一括仕入れとなったわけです:) とにかく、おすすめ。
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/09/01)
如星は結構小説を「読み飛ばす」方だと思う。サラリと読んでしまう、と言うべきか。
その背景にあるものを考えたり、じっくり先を想像しながら読んだりというよりは、ひたすらに活字がくれるカタルシスを蕩尽していく感覚である。人によっては「流し読み」の部類に入るのかもしれないぐらいの速さで、もしかしたら「一秒でも早く先が知りたい」というせっかちさの表れかもしれない:)
しかし、その一方で再読を何度もする。三読しない小説は小説の名に値しないと言い切ってしまうぐらい、繰り返し繰り返し読みふける。大抵の作品なら二読程度、気に入った作品であれば五読六読として、そのうち台詞の端々まで記憶に叩き込まれてしまうというわけだ。
にしても、あくまで物語は物語として楽しんでいる。本の中で逆巻く台風を、ガラスの上から眺めているといった風情か。あまり深く「裏面」を読まない性質であるのだろう。そんなことを考えずとも十分没入させてくれる作品が(如星にとっての)よい作品、ということかもしれない。
が、一度「これは二次創作するかも」と思って再読した瞬間に、不思議なことに頭のスイッチが見事に切り替わり、物語の中へと降りていって読むようになる───ということに最近気が付いた。習性というのは恐ろしい:) 上に書いたように、読者として読む物語は、あくまで見ているシーンしか追いはしない。でも二次創作モードで中に降りていくと、あたかもその世界がリアルタイムレンダリングされているかのように、例えばそのシーンの別の場所で誰がどうしているだとか、主役が語りかけている相手が何を考えているか等が、読み進むと同時に思考として回ってくる。別段意識して何かを読み取ろうとしているわけではなく、3Dレンダリングされたムービーシーンで、キョロキョロと周りが見回せる感覚に近いのだ。ほんと、不思議なモンすねぇ。
で、今マリみて「いばらの森」を読んでいるわけだが……。
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/09/03)
先日マリアージュフレールで買った「ロータス・ロワイヤル」を試してみた。
ロータスといえば蓮で、何故これがバラの香りなのかは不明。バラの紅茶、というよりも淡い香りだからなんでしょーかねぇ。(というわけでサブジェクトは白薔薇姉妹とは特に関係はありません:)) ともあれ、店先で嗅がせてもらった茶葉の段階から「そうそうこの香り」と大きくうなずいてしまった好みのお茶、優しく落ち着く方向の香りなので、やっぱり飲むなら夜ですな。
早速淹れてみると、自宅でもマリアージュで味わったのと変わらぬ香りが立ち昇る。押し付けすぎない薔薇のほのかな香りと、そしてマリアージュならではの芯の通った茶の味わい。フレーバーだからといって決して「香り湯」にしてはならないという、あくまで「紅茶」へのこだわりが見えてくるようだ。前にも書いた、まるで高島屋の老婦人のようなお茶である。
香りも味わいも非常に優しくスイスイ飲めてしまうので、あっという間に1ポット3杯を飲み干してしまった。同時にお茶請けも瞬殺してしまうので、別腹上大変危険な存在である:) 改めて、マリアージュのフレーバーの威力を再認識した夜でした。茶飲みの幸せ、というヤツだのふ。
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/09/04)
5日間も日記を飛ばしてしまった如星ですこんにちは。
一応言い訳をしておきますと(苦笑)、サイト全体を放置していたわけではなく、あちこちに細かな手を入れていたのであります。小説一覧ページの改定にも着手し、現在執筆中の短編3作の受け皿を作ってみたり。
そして告知が遅れてしまいましたが、夏コミ本の通販を開始いたしました。
こちらより詳細情報が辿れますので、ご興味のある方はご参照くださいませ。なお今回対象となっているのは君望短編集「道は遠く夏の彼方へ」のみです。ご了承ください。
なお、旧刊である「遙なる蒼穹と〜」の再販希望というありがたいお声も頂戴するのですが、いかんせん弱小サークルにて100部単位の増刷は荷が重いのが現状です。Web未公開作品については将来の本での収録、あるいは一定時期を置いてのWeb公開を考えてはいるのですが……。この他何か妙案等ございましたら、掲示板またはメールフォームにてご一報いただければありがたいです。
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/09/09)
とりあえず、ミリタリーマニアは戦争好きだという発想はいい加減やめませんかね。
無論世界中の軍ヲタを知っているわけではないが、少なくとも身の回りの軍ヲタ、それから各所のWebやスレを眺めていれば、その指摘は誤りだという事ぐらいは見えてくる。マニア以前に人間としての思考のおかしいガキを除けば、大抵のミリタリーマニアは一般人よりも「本物の戦争」の凄惨さを知る者でもある。戦場で銃弾が当たれば、穴が空くのではなくて吹っ飛ぶのだと、額の穴は後頭部じゃクレーターになってるのだと知っている。戦争にどれだけの金と人命が掛かり、どれだけの兵士が即死できずに死ぬかを知っている人種である。彼らが「戦争はゲームに尽きる」と言うのは、決して自己趣味の正当化のみが理由ではない。
軍事の件に限らずとも、無条件に嫌うと言うのは非常に危険である。事象でも人物でも、対象の「正しい&一定量の知識」を理解して、初めて「嫌う」事に意味が出てくる。「何故嫌うのか」「ではどうするのか」と思考を進めなければ、それは狂信者が騒いでいるとしか見てもらえない。知識がなければ、嫌う対象を説得することだってできないではないか。無邪気な憎悪は不毛な対立を生むだけで、どちらの側にも解決はもたらさない。
まぁそんなわけで、そもそもただ単純に「戦争が嫌いだ」と連呼するだけの人種を、如星はどうしても胡散臭い目で見てしまう。逆に「真に戦争が好きだ」という人種がどれだけいると思っているのだろう? 自分たちに賛同しない人間全てはウォーモンガーである、という発想は、数多の戦争を引き起こした狂信さにむしろ近い。一部の例外にブッシュのような重要人物がいるのかも知れないが、彼は好戦的と装っているだけの人間かもしれないし、また彼に反論するにもやっぱり知識はいるのだから。
そも、知識なき憎悪が、「戦争の回避」にどれだけ貢献しているだろうか。例えば、彼らは拉致事件等の「人間の情」を「取引の材料に使うな」と言う。では何を持って取引せよと? まさか理詰めと情で説得すれば解決する、とでも信じているわけではあるまいに。外交の手を縛るやり方は、言外に砲艦を並べて外交せよと言うに等しいのだが……。
挙句の果てに、「世界中の全ての人々が平和を愛すれば戦争はなくなる」などと、日本中から一円貰って一億円、という程度の荒唐無稽さである以前に、平和の概念が世界中の人間で異なると言う観点をすっぽり抜かしたお気楽な戯言を唱えたりするのだから救えない。結局のところ、冷静に切られる外交のカードのみが戦争を回避し得る──ま、こんな意見は自称平和主義者から嫌われることは間違いない。それこそ塩野七生辺りの台詞を借りていうならば、「平和主義者は、現実主義者が自分たちの理想と程遠いにも関わらず問題を解決してしまうが故に、現実主義者を憎悪する」といったところか。 人類が殴り合いの延長上に「外交」を据えたのはもう数千年以上も昔の事だと言うのにねぇ。
補足──上で「平和の概念が世界中の人間で異なる」と書いたように、また軍事的な話に限らず、何かを語る際に「明白」とか「当たり前の事を」などという台詞を使うのは、自分にとっての「常識」が世界に通用すると言う傲慢な思い込みのなせる技である。
世界人類みな兄弟、本質的に変わるところはない──というのは底の底辺りでは真実だろうけど、そういう台詞を吐く人間が求めるほどには真実ではない。まったく畑違いながら、こんなエピソードもある。実話。
「音楽は世界の共通言語」である。その言葉を疑いもせず、ある時西側文明から遠く離れた世界に住む、その辺りでは著名な大民族音楽家をヨーロッパに招いて、オーケストラに招待したそうだ。一流の楽団、一流の指揮者、伝統の名曲。彼らが演奏を終えて観衆が拍手をした時、その大家はこう言ったという。
「おお、長いチューニングでしたな。ようやく曲が始まるのですね?」
Summary="−−−−" Physical:-- (2003/09/10)