VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
BNL17に参加してきました。当日お越しいただいた皆様、お疲れ様でした。
いやいや、久しぶりのオンリーイベント。イベント自体は老舗という事もあってファンの同窓会のようなママーリ雰囲気で楽しかったですね:) このGW真っ只中に、わざわざご指名で足を運んでいただいた方々には本当に感謝です。なお新刊ささら小説「未来の二つの顔」につきましては、現在書店委託を準備中です。しばしお待ちくださいませ。
それにしても、結構のんびりとしたイベントではありつつも、近年は夏冬の大宴のみの同人活動だったこともあり、如星にとっては「久々の鉄火場の臭い」めいた感覚が戻ってきましたね。こういう場所で事前に駆動系に火を入れておくのも悪くないようです。現地でいきなりお読みいただいた方から直接感想をいただけるなど、こういう場所でしか味わえない「物書き冥利」もありましたし──いやもう二次物書きなんてのは、なかなか貰えないささやかな感想一言が驚くほど大きな糧になっているモノですからね。
なお隣で開催されていた翠星石&蒼星石イベント「夢の中の庭師」に足を向け、見事なドールウェアのレイヤーさん方にて眼福を満たしていたのは秘密です。や、ホントレベル高かったんですってあのその。
この日は打ち上げと称して呑む(笑)旨い物会を比内地鶏屋のひな一@六本木にて。
この店はぶどうさんの持ちネタである。以前別件のオフでも利用させてもらったことがあるのだけど、本当に旨い鶏を気軽に食わせてくれる名店。鶏の肝を刺身で食えるって所はなかなか無いもんです。店の雰囲気もいいしサービングも心地よい。ちょっとした人数にも対応できる。……こういう店のことを「使い勝手がよい」と言うのだね:) そういう店を脳内ストックに溜め込んでるのって本当に重要で、例えばぱぱっとググっただけの初めての店に人を連れて行くというのは、下手を打てば旨い物スキーとしての鼎の軽重を問われてしまうわけで、好きモノ(苦笑)同士でやるには危なすぎるのだ。
とは言え、手持ちに自信のカードがあってさえ、旨い物好き連中に初めてその持ちネタカードを切るときは結構緊張する。先日柚帆女史に彼女の手持ちの珈琲屋・皇琲亭に連れて行ってもらった時にも話題に出たのだけど、普段ドリップコーヒーを飲みつけず、コーヒーの酸味が苦手な如星(普段はエスプレッソばっか)の評価が高かったことで向こうもかなりホッとしたらしい。その心情は実に良く分かる──自分の中で「この人は自分に趣味が近く、評価軸も完成されてる」と認めている人が、自分の持ちネタをどう評価するか。例えその店の実力を信じていても、それはバレンタインに初めて手作りチョコを渡す乙女にも似て(未経験だけどw)、思わず相手の顔色を覗き込んでしまうあの気分なのだ。その分、そういう相手だからこそ、評価してくれた時の嬉しさと誇らしさもまた高いのだけど:)
ちなみに皇琲亭についてはなかなか話題に出せなかったけど、ドリップが本当に旨い名店である。如星は酸味の少ないモノを頼みつつ、酸味強めを頼んだ人のコーヒーも味見させてもらったのだけど、そちらも全然問題なく旨いのだ。今までの嫌な酸味のイメージはなんだったんだというか……皇帝と対談した時に出たコーヒーを評価した紅茶好きのヤン・ウェンリーの気分(笑)。内装も店の空気もクラシカルで落ち着いていて、カウンター上の古びた梁がまたその雰囲気を高めている。珈琲屋の名店ってこういうモノかと実感。
なお地鶏を堪能した後は、六本木ということでそのままデザートを食べにデルソレへ。折角ここまで来たのだから、有栖山=神慮式打ち上げ初参加のまりりそ氏にも日本一のジェラートとエスプレッソを味わっていってもらわねば困る(笑)。折りしも春先の暖かな夜、テラス席に出てグラッパを呷りつつ、極上のジェラートを突付くなんざ幸福の極み。酒も入って話も弾み、近いようでいて普段なかなか縁の薄い絵描きと字書きの意見交換などしてみたり──これがまた楽しく貴重な体験でありました:) これについてはまた別途日記に起こしたいなー。
……オチどころか脈絡もない日記になってしまったのはご容赦。我ながら日本語力落ちてますねぇ……。
今日の一滴="グラッパ:BERTA ELISI" (2006/05/05)
映画「V・フォー・ヴェンデッタ」観劇。
評価の難しい映画であった。……いや、全体としては面白かったし、退屈もしなかった映画なのだけど、一方で特筆すべき点に欠けるというか。今ひとつ盛り上がりに欠ける、と言ってもいいかもしれない。如星にしては随分と歯切れの悪い台詞を並べ立てているけど、その歯切れの悪さこそがこの映画の「感想」だとも言える。
先に面白かった点から。主役たる「V」の演技がまず光る。全編最後までマスクを外さないにも関わらず、感情の表現などに不自然さ、違和感が無い。いわば仮面つきで演じる古代演劇のような感じで、最後にはすっかり仮面下の演技に慣れ切ってしまっている自分がいた。ちなみに後で知ったのだけど、中の人は我らがエージェント・スミスたるヒューゴ氏だったのだとか。納得。あとナタリー・ポートマンもこんな「渋い」役が張れる様になったかと感慨深い人も少なくなかろう。……ま、マチルダ@LEONだって渋いキャラだったんだけどさ。
また古代演劇と言えば、Vのシェイクスピアじみた「立て板に水」式の台詞回しも小気味良い。ただし一部ぶりばりのクイーンズイングリッシュなので、メリケンに穢れた如星の耳では聴き取り切れなかったのが残念ではある(苦笑)。なお、かの「マトリックス」のW兄弟が手掛けたというコトで派手なSFXやCGアクションを期待する人もいるだろうけど、そっちの面では実に慎ましやか。むしろ如星の中では「マトリックス」自体、字幕では今ひとつ表し切れない「台詞回しの妙」の方が印象に残っているぐらいで、この映画でも彼ら兄弟の匂いはむしろそちらの面で引き立ってると言えよう。ジャパニメーションの影響ってむしろこっちじゃないかとすら思うこともある──オタクってのはちと臭うぐらいの格好つけた台詞回しに弱いものだと思うので:)
ちなみに「マトリックス風」といえば、ラストのナイフファイトシーンだけは「あの気持ちいいアクション」が眺められる。蒼暗い舞台の中、銃ではなく銀色のナイフが残像を引いて軌跡を残す様は何とも美しい。映画全体へのアクセントとして、エフェクトぶりばりのアクションシーンをあれくらいの量に抑えた点は評価したい。
肝心のストーリーも大筋は悪くないのだが……この辺りからイマイチだった点に繋がってくる。大テーマは「独裁・全体主義に対する個人の権利と義務」なのだろうけど、Vの個人的復讐劇を大義名分をかざした行動に繋げていく辺りが弱い。あと原作はどうだか知らないけど、全体主義の恐怖の描き方が如何にもメリケン映画だなぁという薄さでテンプレ過ぎ。歴史上のモチーフとなったガイ・フォークスについて前提知識があれば少しは違うのかもしれないけどね。また同じくストーリー関連で言えば、イーヴィーがVに取ってどういう存在だったのか、そもそも最初に関わったのは偶然なのか、その辺りの描写も不足している。何故か偶然巻き込まれて、なんとなく惚れ込まれてしまうというか……。「復讐鬼一辺倒だったVを変えた」というには余りに弱いのだ。これは先の「個人→大義」の接続不足にも関連している。それゆえに、最後のシーンで仮面をつけた市民の大集団が議事堂前に集うシーン、あれは本来(独裁者や公安長官の処刑よりも)映画の最大のクライマックスシーンに仕立て上げられたと思うのだが、やっぱり盛り上がりに欠けて終わってしまう。一人の行動がドミノのように大衆に伝播し、熱を上げ、抑えきれないうねりとなって───そこに必要だったのは、もう少し意味のある「Vの殉死」だったように思う。実際の映画では、個人の復讐劇の果てに何となく殺られてしまっただけに見えてしまうので。やはり、彼自身の変化描写の少なさが、盛り上がりの少なさに繋がっているのだろう。
というわけで、最後まで飽きずに観られるが、一方で大盛り上がりもしないという微妙な評価になってしまった。娯楽作品としては十分面白いと思うので、とりあえず観ておいて損はないと思う。なおこのレビューは、Vのテーマソング・チャイコフスキーの「1812」を聴きながら書いた点を付記しておく。どかーん:)
今日の一滴="ハーブ:サンタ・マリア・ノヴェッラブレンド" (2006/05/06)
涼元悠一&VisualArt's「planetarian」パッケージ版読了。恐ろしく長いレビューになってしまった。プレイ時間より書いてた時間長いんじゃないか(苦笑)。
「キネティックノベル」なる一本道形式の本編はさくっと2時間ちょいで読み終わったのだけど、率直な感想は「良い話」レベルに留まってしまった、といったところ。後述するように一応の救いはあるのだけど……。主題や舞台設定は古典的ではあるが巧いし、尺の短さは価格設定上も仕方ないとしても、途中までは巧く引っ張れていた物語が、終盤になって急にご都合主義のテンプレに落ちていってしまう辺りが残念だ。人類が持っていた星への見果てぬ夢、その挫折から始まった世界の転落。夢を廃墟の中で護ってきた機械仕掛けの少女と、挫折の申し子たる現実を生きる男───この小説の主題は、そんな夢と挫折、そして夢を語り継ぐ意味にあるのだろう。またその主題を語るに「廃墟の中のプラネタリウム」は巧い舞台設定だ。実際、途中の「記念投影」終了までは、その物語は巧く紡がれていたと思う。
非常用電源が切れて投影機が沈黙する闇の中、ゆめみの語る声だけを頼りに、彼がたった今初めて見たばかりの星々のイメージだけで語られる「記念投影」。クラークの「遥かなる地球の歌」にも似た、今は失われた存在、輝かしい人々の記憶への憧憬、それがもはや「過去の世界」の夢であるが故の苦味。その情景を敢えて彼女の声だけで、更に言うなれば「彼女が護り伝えてきた誠実さ」だけで語るシーンは、確かに本作の主題を淡々と、雄弁に物語っている。それは夢を語り続ける者の、夢など無い者には正視できない眩さであり、人から人へ、いや人ではない語り部をも通じて受け継がれていく見果てぬ夢である。実際如星は(露骨な泣きを誘う)終盤ではなく、このシーンで涙を零しそうになった。過去に確かに存在した希望に満ちるプラネタリウム内部と、今の現実を押し包む雨のコントラスト。その中間たるエントランスに立ち、夢と現実を繋いでいる少女。更にそれを受け継ごうとする男──ああ、確かに古典的ではあれど、普遍的な物語の主題である。それは素直に、美しい。
しかし……そこから先の終盤が、取ってつけたような展開なのが頂けない。彼女が語り継いできた夢がここで途絶え、語り部の役目は男に委ねられる──というのはまぁ王道な選択肢ではあるのだけど、ゆめみの破壊に到る話に物語的な意味付けが全然ないのだ。死の間際で語られる彼女の言葉に、彼女の道が何故ここで途絶えるのか、彼女が何故それを受け入れられるのかの重み付けがない。彼女が愛されていた事実は既出以上の重さは無いし、この先も人間に仕える事を望む「天国」は確かに「お涙頂戴」ではあるのだけど、ここまで積み上げた「夢と現実」の主題には沿ってないので違和感が出る。パッケージ版特典の「小説本」短編集の一つで、男が語り部(星の人)となっている事実が明かされ、またそれを先の世代に伝える話が描かれているが……そのやり方はちと反則だろう。物語はあくまで、物語の中で結実して欲しいものだ。
とは言え、この物語には一つの救いがある。これも小説として考えれば半ば反則かもしれないが、如星自身が好んで使うパターンなので余り大きな声で批判はできない(苦笑)。それは「音楽をモチーフとした物語」という表現方法だ。
この話のメインテーマとして流れるのが「星の世界」。「か〜がやく夜空〜の〜」という有名なアレで、讃美歌「慈しみ深き」で知ってる人もいるかもしれない。しかしここは、文語調の「星の界」を頭に浮かべておいた方がしっくり来る。
──杉谷代水月無きみ空に煌く光、嗚呼その星影希望の姿。人智は果て無し無窮の遠(おち)に、いざその星影きわめも行かん
雲無きみ空に横とう光、嗚呼洋々たる銀河の流れ。仰ぎて眺むる万里のあなた、いざ棹させよや窮理の船に
実は如星、最初に読んだ時はこの歌詞を知らなかった。ああこの旋律なんだっけ有名なやつ、とプレイ後の音楽鑑賞モードで見たタイトルからぐぐって見つけたのである。……どうだろう。月無き空に煌く光、希望の姿──これは厚い雨雲に覆われた現実下の、彼女の存在そのものではないか。そう気づいた瞬間、ラストシーンで彼女がプラネタリウムの呼込みを再生する様にこの詩が重なって、俄然意味合いが深まった。彼女は夢を保存し、語る存在であると同時に、彼女自身も夢を体現する存在なのだと。人智は果て無し無窮の遠に──人々が見た遠い夢、プラネタリウムの人々が彼女に重ね、託した未来の姿。「いつしか人は星々の世界を舞う」という彼女の歌声を聞き、その余りに遠すぎる現実に打ちのめされる男。この曲、この歌詞を知っていて初めて、男があの最後のシーンで掻き集めたのはこの「歌」だったのだと分かり、「受け継ぐ」という主題に彼の行動を照らすことができる。
また一方で改めて、全体の主題から違和感を覚える個所も分かる。ゆめみは、外の世界が「壊れている」ことなど認識する必要は無かったのではないか。彼女は最期まで、星影、希望の姿のままでも良かったのだと思う。……それを現実に結びつける役目は、もう男に託されたのだから。
「星の界」を事前に知らずに素直に物語を読み通せば、やっぱり終盤の締めは投げ遣りに感じる。そこは大きく減点だけど、こうして補完できてしまったので「まぁいいか」という気分になっている、というのが正直なところだ。音楽による脳内補完が効かなければ酷評になってしまう可能性もあるし、実際如星自身、このレビューを半ば書き出したところで上記の曲を知り、再読し、慌てて半分以上このレビューを書き直したという経緯もある。その辺り、商業作品としては失敗という気もする。加えて、ノスタルジックなSF的憧憬を持たない人が、どれほど「人類の見果てぬ夢」を評価してくれるのか、その辺も不安だ。
が、この「美しさ」をそれで見捨ててしまうのは余りに惜しい。ダウンロード版でもいいので、如星個人的には一読を勧めたい。 ……実際これで「1000円」と言われると「音楽含めて800円くらいかな?」という感覚であり、既に3000円払ってしまっている身としては微妙な気分ではあるのだが。
なおボイスはあっても無くても(ダウソ版にはない)。最期のシーンだけはやはり声があると俄然雰囲気は出る。一方もう一つのおまけである小説短編集は、正直大した価値が無いという印象。同一の世界観から切り出した、あるいは世界観を未練がましく補完するだけのもので、物語性は低い=単体の読み物として面白くない(この辺、同じく同一世界から切り出しても、別箇確固たる物語を構築してしまう奈須御大の巧さが改めて分かる)。前述の通り、男のその後について書かれた短編が一つ入ってるけど、あるいは余韻を汚されたとすら感じる人もいるかもしれないしね。よってボイス部分に追加2000円近くの価値を認めるか……んむむ。難しい。
ま、「正気か?」 「いいえ。すこしだけこわれています」
という会話の間の妙に免じてもう100円ぐらい上乗せしておこう(笑)。あと相変わらず本作絵師の某氏は、もうホントに、はいてないよ相変わらず(何)。
この作品、2004年末から「キネティックノベル」としてネット配信販売されてたモノのパッケージ版ということらしい。Keyが出すということで「話には聞いていた」という人も多いのではないか。自分の周りにもそういう噂レベルで知っていて、今回パッケージ版発売ということで手を伸ばした人が結構いる──これは裏を返せば、気楽なはずのネット配信が如何に購買に結びつかないか、手元に来てしまえば邪魔にすら思うメディアを何故か人が手にしたがる証のようでもある。
さて、元々鍵にはAIRでサヨナラしていた如星、パッケージ版の本作を購入したのは妙な偶然からである。シナリオライターのページで「初回版は数が少ない」と煽られているにも関わらずamazonでは直前でも予約可能だった件について、むしろ過去にamazonに痛い目にあった同志とゾネを試す意味で予約購入してみたというだけだったり……。まぁ3000円弱なら久々に鍵物に触れるのもいいかな、ということで。結果、モノは問題なく届いたし発売日後も初回版はゾネでゴリゴリ買えたりしたわけでありますが。まぁいいや。サァ行くか。
なお「キネティックノベル」というメディアについては、ちょっと他のも体験版も触ってみたけど基本的に同一システムのようで、あっさり言ってしまえば「シンプル手抜きクラシカル上部絵下部文字スタイルギャルゲー分岐選択肢なし簡易版」に洒落た名前をつけただけの代物。サウンドノベル、ヴィジュアルノベルの系譜に較べれば、絵の動きをみていると文が飛び、文を見てると絵の動きが飛ぶこのスタイルは読みにくい/感じにくいことこの上ないし。潔くマブラヴオルタの様に字幕風にしてしまうでもなく。まぁ、チープな劣化版システムと思っといていいだろう。「planetarian」の雨のエフェクト等は巧かったけどね。
今日の一滴="−−−−" (2006/05/07)