VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
如星が日記の形で何かを書くとき、そのネタ選択基準の上位には「他の誰でも書ける話はなるべく書かない」というのがある。
これは別に独自性を目指そうとか孤高を決め込もうといった高尚な考えではなく、単に興味を失ってしまうからである。他所の誰かが先に書いてしまった上に、しかも自分が大同小異の意見しか書けないとなると、わざわざ貴重な時間を割くこたーないかなと思ってしまうのだ。池に落ちた犬を寄ってたかって叩くのも同じだ──これも無益な事を、という高尚な発想よりは、それが娯楽の一種であると知りつつも、まぁ他所の人が叩いてくれてるならいいか、という良く分からん諦観である──自分が別の角度からデス・ブロウをカマせるなら別だけど。
これは「他の誰とでもできる話なら俺とするな」という、如星の雑談思想ともちょっと似ている。自分はあまり「何かの一員」であるという主張に興味はないのだ。ま、といっても時には旗幟の表明みたいなことはするし、誰かと意見が通じ合うのは素直に楽しむけど。基本的には、如星みたいなけったいな属性の人間の視点を晒すのがこの日記の主眼である。そこに何か新しい視点を感じてもらえたなら、それはもうこの上ない幸福に他ならない。
"──So I write, to you."
今日の一滴="−−−−" (2006/06/04)
なんて話を書きながら、いきなり誰でも書きそうなネタを(笑)。今更ながらようやく「ダヴィンチ・コード」読了。
えーと、残念ながら名物に旨い物なし、ベストセラーに興奮無しの格言再び、といったところ。とんち本(パズルにあらず)としてはそこそこ面白いんだけど、ストーリー部分は超ハリウッドだし、謎解き部分は「超人が解いてしまう→さすが月くん(誰)」の連続。ミステリーやサスペンス要素が全然ないので、読んでてまったくワクテカしないのだ。うーむ。
まず。謎解きの謎自体が、最初の配列暗号風以外は全部「とんち」なのである。数学的でも言語学的でもなんでもない、答えに論理的裏付けのない「なぞなぞ」。トラックがカーブで落とした物なあに?というアレ。「そー解釈もできるね」という答えを当てはめてみたら当たっちゃいました、という感じで話が進むので、読者の手による真面目な解読とかを期待すると大ゴケなので注意。
そして謎自体がそんなんだからと言うわけでもないだろうに、その解き方には全然物語性がない。ただ時と場所を変えながら延々悩んでみせるだけで、結局は「主人公らが最初から所有している知識」によって謎を解いてしまう黄門様解決プレイである。ミステリーのように物語の中でキーが見つかるのでも、主人公たちが悩み、葛藤し、成長して解くというわけでもないので、謎が解ける瞬間に読み手が感じられるカタルシスがない。もう後半になると新たな謎解きが登場しても「ハイハイまたこいつらが解くんでしょ」という印象しか持てず、この謎がどうなる、どう解けるというサスペンスすら生まれないのだ。
そしてそのストーリーテリング自体も凡庸の極み。冒頭こそ「女性が男性を救ってみせて」メリケンらしい似非政治的中立を演出してるけど、それ以降は「頼れる男が繊細な女性を守りつつ、次々襲い来る試練をバッタバッタと(略)」。筋肉が知力に置き換わっただけの、もういつの時代のストーリーテリングだって風情。そしてラスト(僅か二日後)には当然突然ロマンス。うはwwwwこれなんてハリウッド小説wwwwwwwwwwって感じなので、映画化にはまったく興味のない如星ではあるが、意外に映画親和性は高いのではと思っていたりする(苦笑)。ちなみに「犯人探し」部分はミステリーとして捉えても大した面白みはない。
さて、一応推論や解釈に民俗学的・キリスト教的なネタが登場はするものの、その根幹が「登場人物による蘊蓄語り」ばかりなので、その「語り継いできた歴史」に感情移入が全然できず、物語性への貢献はない。唯一させてくれそうだったルーブル館長氏は早々に退場してしまうし、おまけにそのネタはプリンセスの貴種流離譚という超古典に使われてしまってるし(苦笑)。よってキリスト教圏ではまた違った受け止め方をしてるのかもしれないけど、一般的な日本人読者に取ってはエヴァやヘルシングのような「オタク受けする衒学的キリスト教ワード」だなぁ、という程度の印象だ。つーかこれがベストセラーって事は、日本人も皆オタク趣味親和性があるってことですかね(違)。
あーうー、一応「全部×では批評にならない」の主義の下、誉める個所を探そうと思ったのだけど……今ひとつ見つからない文章になってしまった。ちなみに文体も別に(翻訳では、だが)美しくもないし、うーん、一応読後感はそんなに悪くないし、時間を無駄にしたと思う程に悪い小説ではないのだががが。ああ、イギリス紳士のはっちゃけ方がやけにリアルで、そこは結構面白い:) ま、ちょっとしたキリスト教「ぽい」オタク作品を読んでる気分にさせてくれる一本、といったところか。飲み屋で誰とでもできる話題が欲しい場合、サクッと読み終わるのでお勧めかもしれない(笑)。それは「ベストセラー」の一つの効能だし。俺はあんま要らないけど。
……という内容を800字に要約してゾネに送ったのだが、一週間音沙汰ない所をみるとボツ食らった模様。なんだよー、これぐらいの批判レビューなら他作品なら今までも載ったし、今のダヴィンチについてるレビューにも十分同じぐらい辛口のあるじゃんかーヽ(`Д´)ノ
今日の一滴="−−−−" (2006/06/05)
仕事が早く捌けたこともあり、常備品になったハーブティーの一つ、地中海マッキアとエルダーフラワーを仕入れに銀座ティサネリアへ。
……が、ここって途上にマリアージュフレールがあるのよねぇ(笑)。その前を何事も無かったかのように通過するのは非常に難しい。今日もやっぱりふらりと入ってしまい、そして見つけた「ヒマラヤ」の文字。ヒマラヤ、つまりネパールのお茶を日本で目にすることは稀で、故に結構高価なお茶が多い。全体としてやはり近くのダージリンと似ているようだけど、それでもネパール独特の地味がもたらす(であろう)個性を試したくなってしまうのが茶飲み、飲食趣味野郎の性である:)
最近再びここの店員さんには顔を覚えられてるようだけど(前に親しかった方は新宿店に行ってしまった)、段々如星への勧め方の精度が上がっている気がしてならない(笑)。今回も個性に興味があるとはいえ半々で迷っていたところを、見事に押し込まれた感じだ。無論、それは不快ではなく嬉しいぐらいなのだけど。
その後は本来の目的どおりコマツ上のティサネリアへ。まだ3回目の仕入れだけど、ここも妙に覚えられている模様。前回取り上げなかったけど、煮出しで入れるかなりフラワリーで酸味のある「マッキア」、そして紅茶ブレンド用にお気に入りのエルダーフラワーを確保。包みと会計を待ってる間に、自分も持っているティサーナA17にカモミールとオレンジピールを加えたお茶をサービスしてくれた。普段自宅で飲むA17よりも丸みが広がって実に旨い。……聞けば、ここの「今日のお茶」は元々ブレンドされたものではなく、その日ごとのオリジナルブレンドなのだとか。紅茶にしても酒にしても、ブレンダー(カクテルもその一つだ)というのはまた一段上のスキルを必要とされるわけで、ここの心地よいリコメンドの裏を支える実力を垣間見た気分だ。
ちなみにSMNの「地中海シリーズ」は現在マッキアしか日本に入ってきていないが、薬事法が緩和されたとかでシリーズその他のお茶も月末ぐらいには入るのだとか。これまた楽しみな情報である。ハーブティースキーは是非お試しあれ。
帰り道の曲がり角で案の定ワッフルを買い食い、頬張りながら幸せに帰還。真是満載而帰:)
今日の一滴="−−−−" (2006/06/07)
早速先日買ってきたマリアージュの「シルバー・ヒマラヤ」を試してみた。
ダージリンと似たような感じかな、と軽く考えながら入れたのだけど、いやこれは参った。久々に新鮮な驚きを感じた、神域のお茶である。まず茶葉の時点で、ダージリン系のインドの地味とはまったく違う、プラムを練りこんだチョコレートのような(ルカ・マンノーリにそういうチョコがあるもんで)、フルーツの甘さとカカオめいた重みのある香りが漂っている。店の方のアドバイス通り長めに入れること5分、茶葉を漉すために第2ポットに注ぎ替えるだけで、茶葉から漂っていたカカオの香りが更に濃密に立ち昇る。水色は濃い目のダージリンのような、むしろモルトに近いブラウンだ。
口に含むと、そのチョコめいた香りは何層にも折り重ねられた茶葉の地味がもたらす複雑さなのだとわかる。そして爽やかな青さも追いかけてくるのだけど、その青味はダージリンの草のような感じというよりは、完熟前のマンゴーのような青さ。そこが元々の甘味のある香りと相まって、フルーツのような雰囲気を醸し出しているのだろう。味の面では渋み控えめ、如星はよく「濃厚」なボディを好むのだけど、むしろこれは久しぶりに「豊潤」という単語の浮かぶ、華やかさがキチンとした深みを持って溢れ出すような飲後感である。
マリアージュのパッケージには「威厳に満ちた紅茶・この香味、貴族の風格」とある。毎度ここのお茶はフランス人らしい少々表現過多な煽り文句がついているのだけど(笑)、今回ばかりは「まったくその通り」としか言いようがない。威あれど猛らず、ヒマラヤの名前にふさわしい天上の風格を持つ紅茶でした。
今日の一滴="紅茶:マリアージュフレール「シルバー・ヒマラヤ」" (2006/06/08)