VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
「見返りを求めない好意」は「好意の返報獲得率」を上げるのでは、という興味深い話があった。しかし冷静な手法として考えると結構「冷たい」前提条件を持つし、またどちらかと言えば到達点に近い発想でもあると思う。
2006.06.25補足:この話は恋愛に限らない、というより人間関係・好意全般の話で、むしろ「意中の人を一人ゲットしたい」という色恋的なケースとは直結していないので注意。色恋でいうなら下準備ぐらいの話です。愛なんて単語が出てるので誤解を生みやすいので付記。
まずこの話、何故見返りを求めないほうが返報獲得率が上がるか、という点についてはなかなか巧く解説されていて頷ける。これは自分が「議論と相談のお作法」で書いた話に少し似ている──「愛されたくば愛せよ」などの抽象的な言葉で語っても説教臭いだけで説得力に欠けるが、具体的な話に落とせば純粋に技術論に近いモノになる、という点において。そう、これはもう少し冷たく言い換えてしまうことも可能だろう。「見返りを求めてないように見える好意は返報獲得率が高い」、と。これは決して「無償の愛」なんて綺麗事ではなく、実際に得られる好意の総量を増やす技法であるという現実のお話なのだ。だからこそ、「愛に見返りを求める莫れ」などという世間知が生まれるのだろう。……ホント、こう書き戻すと胡散臭いなぁ(苦笑)。
しかし、である。となれば次の質問は「返報不要(に見える)好意を振舞うにはどうすれば良いか」になるのだろうが、現実にはこれってかなり難しい。いや正確には一定条件を満たさないと難しい、というべきか。
上で「技法」という単語を使ったけど、現実にはこの技法・戦術を計算して行ってる人はそう多く無いと思う。計算づくの人間関係に対する嫌悪感、なんて道義的理由からではなく、むしろ純粋に「意識的に行うのが難しい」技法だからだ。white_cakeさんは次エントリで「小さ目の好意をばら撒く事」を提言されているが、これはそんな好意の大小だけで決まるモノでもない。そもそも大小の見極め自体が自分と相手の関係性に強く依存するためとても難しいし、また人間自分が信じてもいない行動はなかなか演じ切れないもので、余程の演技力が無い限り、大小の境目見極め辛さとも相まって妙な下心を勘繰られる可能性は結構高い。white_cakeさんは「返ってこなくても惜しくない程度の好意」
としてるけど、経験則的には程度よりも心持ち、心持ちの醸し出す雰囲気の方が影響が大きい。
なお見極めが不要なほどささやかにというのは確かに一つの手ではあるけど、ちょっと前述のエントリで挙がっている例は……うーん、ささやか過ぎて常識に過ぎないというか、返って来るのも好意なんてレベルではなく「人間扱い」程度のような気がする……。
さて、ではどうするのか。単純な答えは「本気で返報を求めない」──だと見返りを求める話と矛盾するので言い換えよう。この技法は「中長期投資」であると認識し、かつ中長期視野のリターンを信じられること、が一つの答えである。「短期リターンを求めない好意」と言い換えた方が分かりやすいかも。短期的返報を期待してしまうとどうしても行動が派手にもなる。繰り返すが、決して「一切求めていない」訳ではない点には同じく注意。
実はこれって、そもそも友人・恋人・仲の良い家族で成立している状態でもある。お互い短期利益など考えずに「何となく」の好意を応酬し、過去分からの収穫と再投資が回っている状態。かつ過去実績が今後の長期リターンも信じさせてくれる(時に裏切られるけどw)状態。中長期投資ってリスク管理の面でも比較的容易なので、精神的にとても「楽」なのだ。これが友人関係・恋人関係が「居心地がいい」理由であり、裏を返せば短期リターンで成立している関係は日々算盤勘定やら関係崩壊リスク管理やらに勤しむことになるので、ひじょーに疲れてしまう。恋愛関係でもたまにそういうパターンを見かけるけどね:)
しかし、この返報不要手法で得られる好意って、単位時間辺りの量は少なめという点には注意したい。例えば多くの好意関係を結ぶという分散投資(特定先に依存すると過剰期待が態度に出てしまいがちでもあるし)や、継続的に返報を受けることによる総量勝負、そしてマキアヴェッリ曰くの「将来も得られるという確信」が、その少なさをカバーし日々の好意満足感(?)を支えていると言ってもよい。
ところがところで。ここで別の方も述べているし、如星自身経験のあることだが、一方で好意に飢えている状態って人間とーっても辛い。自分の存在意義を確認する術を失った状態と言ってもいい。そんな状態では、そもそも短期的返報を求めない(と信じ込む)のは非常に難しい。また無理して行っても上で書いたように短期的には薄い返報性しか見込めないので、しばらくはそんな与える一方の苦しみばかりが先行する。また例え他者からの好意供給量が現時点でゼロに近くても、件の「将来得られるという確信」でもあればまだ頑張れるのだが……これも過去に安定収穫の経験が無く、また自分の各種好意獲得スキルに自信が無ければ、到底収穫期のリターンを信じられない(ある時期の自分はそれが皆無で絶望しており、ある時期の自分にはまだそれがあったので救われた)。つまり現在進行形で好意不足に陥ってる場合、種を蒔くのも辛いのに収穫も信じられないという、この技法の行使自体が難しい状況にあるのではなかろうか。
故に。愛されたくば愛せよ。然り。見返りを求めぬ(ように見える)好意は好意返報獲得率が高い。然り。されどその実行には、現在進行形で精神的余裕を持てるだけの好意のストックがあるか、または将来の獲得を信じられるだけの展望なり自信なりが必要である、というのが如星の考える「結論」だ。いわば余裕資金による投資か、大損失後でも復活できる自信のようなものである。これは現在富める者は富み、持たざる者は敗北するというスパイラル構造であると冷たく言い切る事もできるし、あるいは一発当てて手元資金のできた者が、今後の安定収入を求めて打つ第二の布石として有効な提言なのだ、とも言える。よっぽどの演技力か人の機微を読むスキルでもあれば別だけど、そういう状態ならそもそも餓えてはいないだろうしね。
身も蓋も無い提言:手元資本または過去実績が無い場合には別の道を検討すべきかも。むしろ手法というより到達点に近い気配もあり、目標として掲げるのはアリ。
ちなみにこれを恋愛に展開する手法は「恋愛アンカリング技法」とでも呼べる発展形な気がする。上の話より更に身も蓋も無い「富める者」向けの再投資術ではあるが……その話はまた気が向いたときにでも(ぇー)。
今日の一滴="ブランデー:安レミーマルタンによるニコラシカ" (2006/06/15)