VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
今日の一滴="−−−−" (2006/09/18)
議論風討論における勝利へのパーフェクトパターン:
私の論旨は全て説明済みです。ちゃんと読み返してください。
貴方が私の意見をキチンと読むまで私も貴方の質問には一切回答しません。
それは感情論です。貴方は論理的な私の論旨を理解できないバカですね?
で、話が進んでませんね。これでもう終わりでいいですか?
('A`)
対話の拒絶に始まり、議論とは無関係かつ無根拠な相手の切捨て、そして対話を拒絶しておいて「話が進まない=終わり=唯一の論理的回答を出したのは自分だけなので勝利」と終結宣言する黄金パターン。まさに全ての行が議論のアンチパターンそのまんまみたいな台詞だが、いやこれがテンプレどころか、本当にそのまんまの口調で議論もどきを展開する奴がいるんだから世の中驚きというか萎えるというか。
もちろん言うまでもないとは思うけど、自分の意見が論理的論理的とどんなに主張しても、相手が理解できてないのならそれは単純に説明が足りないか、さっぱり論理的ではないかのいずれかなワケですよ。故に求められてるのは純粋な再説明なんですが、一方的勝利宣言をしたい輩の多くは二度とこれをしません:) 自分の意見が何故論理的正当性を持っているかは一切語らず、あるいは「明白」なんていう根拠ゼロの聖典文句すら持ち出して、その「明白で論理的」な意見を「理解できない奴がアホ、感情的」と切り捨て一辺倒に走ります。ええ、もう本当に分かりやすいぐらいですよこのパーフェクトパターンは。
相手が「私の論理的な意見」としている部分を全文引用し、こっちの発言ターンである事を巧く使って一つ一つ解体して否定していく。
問題点:そもそも意見の一発否定は(相手がよっぽど迂闊でない限り)難しい。つまり最終的否定の為には相手を議論に引き込まねばならないのだが、対話は否定されており、多分相手は相変わらず「アホは放置」という態度を取り続ける。しかも「話は終わってること」にしてわざと別の相手と対話を始めてたりする。この突破、容易ではない(誰)。
この黄金パターンはテキストベースの議論(もどき)でのみ発生する。口頭ベースの場合、「言い直し」要求をポインタの指定で逃げることができないため。よって職務上の議論等、生きる糧の障害となることは稀。
結局どう足掻いてもこの手の輩に「議論」なる単語は通じないので、勝手に討論モードに切り替えてさっさと「勝利宣言」でもさせてお引き取りいただくのが上々。その際、キチンとオーディエンス(聴衆)を作っておくことと、相手ではなく聴衆に都度自分の意見の確認を求めておくこと(重要)。大丈夫、あなたが煽りに負けず淡々と論理を構築していれば、実際にはどっちの意見に理があったか、その聴衆には伝わっているはず。そして大抵の場合はそれで十分のはずです:)
──これは「聴衆を引き込んだ方が勝ち」という、古典的手段のテキストベース的応用(というか、そのまんま)に過ぎないわけですが、意外にこの手合いは一方的勝利宣言で流れを作ろうとするだけで周りが見えなかったりするので。
問題点:相手が徒党を組んでいる/サクラ聴衆(例:信者)を引き連れている場合→地雷原に踏み込んだ貴方の負け。
あ、例によって特定の何処かの議論に対する反応ではないので念の為。つか最近引き篭もり気味でフレーミングに出て行く程の元気はないですよ(苦笑)。
今日の一滴="−−−−" (2006/09/19)
今日は仕事を早めに切り上げ、帰りに一路青山ティーファクトリーへ。
無論、お目当ては今日の昼間に入荷するというキャンディ。このお店はスリランカから直で買い付けているので、まさに製茶したて届きたての紅茶である。……先月辺りの入荷時には量も少なく、そして何より極上の出来栄えだったという声が声を呼び、販売分はなんと2日で完売してしまった模様。前回はそれを後から聞きつけ、後に店頭分を実際に飲んでみた時の余りの旨さと、それなのに買って帰れない悔しさで発狂する思いだったわけで、今日は是が非でも駆けつけたという次第。
今回のキャンディは前回のよりは若干味が落ちるらしい。といっても前回のが神クオリティ過ぎただけで、今回のも香りは高く納得の品質とのこと。ま、直々に現地に飛んで選んでくるおっちゃんの眼には客一同完璧な信頼を寄せてるからねぇ:) もはやセイロン茶は青山以外で買う気にならんのも当然と言えよう。
さて、今日は実際に来てみると、買って帰るキャンディは別として、なんと少量だけ「すごいルフナ」が入ってるとのこと。飲む分のみ、というか多分今日のキャンディ目当てで来る茶好き衆で消費しきるだろうという量だそうで、味は店長に「茶好きにとっちゃ前回のキャンディ以上」と言わしめる程。もちろんありがたく飲んでいくことにしたのだが、──いやこれが絶句するほど旨い。以前飲んだルフナは正直甘みがくどすぎて今ひとつ好みではなかったのだけど、今回の甘みは若干の滋味を含んだ深い味わい。飲み下して数秒で喉に昇ってくる赤みを帯びた旨みと香りは、セイロンというより極上の中国紅茶を思わせる。聞いてみればやはり前回のルフナとは品質も、そして値段も(笑)段違いらしい。\元々ルフナは、アラブ辺りの富豪の代理人が現地農園で製茶を待ち構えて買い付けていってしまう類のお茶らしく、特にこのクオリティが日本で飲めるということ自体が恐ろしい。今回我々は店長の個人的頂き物という形で、店頭で本来ありえない普段のままのお茶代で飲めたという次第。いやー、今日来て良かったよホント。
続々と来店する常連らしい茶好きの方々としばしの茶談義なども楽しみ、もちろんキャンディを購入して幸せに帰還。今晩は早速こいつを入れて寛ぐとしますかね:)
如星の場合、書かない事によって文章力が落ち、文章を練り上げる労力及び時間が増えて面倒が増して書く頻度が減って結果として文章力が落ちて、というネガティブスパイラルが結構上位の理由の一つになるみたい。
毎度似たようなことを書いてるけど、思うに文章力とは楽器演奏の基礎にも似て、三日さらわねば腕が鈍るという類の能力なのだろう。あ、これはあくまで「文章力」、物事や論旨をなるべく広い対象に分かりやすく書く力のことで、創造性を要する部分、小説を作り上げる能力などは(関連性はあっても)また別の話。つまり文章力とは「技術」に属するスキルって事ですな。技術と芸術を共にアルテと呼んで区別しないのが本来のローマ流かもしれないけど、まぁ感覚としては文章力という技術で小説という芸術を組む、という感じ。
さて文章力。例えば上の紅茶日記、これぐらいの「事象(紅茶店に行ったこと)」と「伝えたい事(店のよさ、紅茶のよさ)」ならば、毎日の日記書き作業として続けていくのなら10分以上は掛けたくないところだ。ところが実際には、今回は店にいる間にざくっとは書き上げたものの、帰りの車内での微調整を加えると多分2-30分程度を費やしている。こういう時、文章力の「衰え」を実感すると共に、書くのに手間が掛かるから面倒だなぁ、という怠け欲が忍び寄ってくるわけだ。エディタを開いたけれど真っ白のまままとまらず閉じてしまってネトゲ、というのが如星は結構ありがちな方である。
裏を返せば、他人が読むことを意識した日記なりブログなりを続ける事は、文章力の基礎トレになり得るということ。ちなみに小説同人参入にも結構有利だと思う(笑)。無論文章力の高さと小説の面白さは必ずしも比例しないけど、文章力を鍛えておくと純粋に「書き手として書くのが楽になる」と思う。小説を書き殴っていると、言いたいこと、伝えたい妄想が脳内にあるのに巧く日本語に落ちないムキー、という状況に陥りがち。そんな時に貴方を救うのは文章力か勢いのどちらかなのだ。
まとめ:真面目に日記を書け如星。
今日の一滴="セイロン紅茶:ルフナ" (2006/09/20)