VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2006-11-12-日】

父親たちの星条旗・再来編

先週手痛い敗北を喫した「父親たちの星条旗」、本日無事字幕つきでリベンジ完了である:)

さて肝心の映画についてだが、二度目でもそこそこ楽しめるぐらいには良い戦争映画であった。ふくだも書いてるけど、上陸前の艦砲射撃や上陸作戦の戦闘シーンは巧い。よく引き合いに出されるプライベート・ライアンに較べるとある種淡々としているが、破綻なく、英雄なく、凄惨な戦争が描けていると思う。当時の米軍兵の日常という面にしても、まぁこの辺は退役軍人が見てもさほど違和感が無いように気を使ってるな、という感じ(アメリカとはそういう国だ)

一方、改めて見返すと物足りない点もちらほらと。

まず、この映画のポイントは「凄惨な最前線」と「滑稽な茶番劇で戦債を売らねばならない本国」の雰囲気の対比にある。後者が暢気かというと実際にはそうではなく、その滑稽さが逆に薄ら寒さを覚えさせる現実なわけだ。そしてその両者を繋ぐ橋として、かの有名な星条旗を押し立てている写真が使われるという構図である。これは至極分かりやすい。この辺りを見てて感じるのは、アメリカとは既に第二次大戦の頃から「進んで」いたのだなぁ、という事だ。日本が国民生活を磨り潰して総力戦に当たり、欧州が瓦礫の平野を大量生産している中で、国民が戦争に倦む余裕すらあり、報道によって彼らの継戦意思を煽らねばならなかったアメリカ。その後のベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争の系譜の大元が既に形になっていたわけだ。

しかし、この映画からそんな日本との落差、世界との格差が描かれるかというと、そんなモノは影もない。「アメリカにとって、戦争とは常にそういうものである」という、確かに戦争の冷酷な一面ではあるが、本気で本国領土を傾けたことのない国ならではの認識がそこにあるだけだ。「戦争では善と悪を単純に分けることなどできない」という台詞が冒頭にもあるのだが、ではこの映画の描きたかった「善に見えるもの、悪に見えるもの」とは何だったのか、内容からは今ひとつ見えてこない。旗を取替えに行っただけの兵士が英雄=善として扱われることの歪さだろうか。所詮は自分たちは逃亡者、悪なのだと葛藤する若い兵士たちの心だろうか。茶番劇という悪に見える財務省の人間や熱狂する国民が、しかし継戦には不可欠の善であるという皮肉だろうか。──いずれにしても、この物語はアメリカという枠の中で完結している。そこに敵国や世界というモノはなく、ただの国内問題としてこの映画は存在しているのだ。確かにそれは十分悲劇的ではあるし、この映画はその辺りに焦点を当てただけだ、とも言えるのだが、硫黄島で彼らと相対した日本人からみれば、どうも置いてけぼりを食らった感は否めない。

この映画は第二弾「硫黄島からの手紙」とペアであるという。日米両面から硫黄島の戦闘を描く、という話を聞いた当初、如星は硫黄島の同じ物語が二つの視点で描かれるのだと思っていた。だが実際には、硫黄島という題材で米国の話と日本の話を描いただけのようだ。「父親たちの星条旗」に日本人は一切登場しない。相変わらず昔ながらの、米軍兵を野蛮に殺し、米軍兵に殺されるだけの日本兵が映像に現れるのみだ。一応「手紙」側には日本兵とアメリカ兵の係わり合いも描かれているようであり、物語としてはそちらで補完されるのかもしれないが、果たしてこの映画を見たアメリカ人の全てが次作にも足を運んでくれるのか、と要らぬ心配すらしてしまう。恐らく後者を見なければ、これはアメリカ人に取っては「毎度の戦争映画」に過ぎないのだろうから。ま、とりあえず次回作には期待しておこう。

ちなみにこうして見ると、ドイツ兵や戦闘地域のフランス人を見事にシナリオに織り込んだ「プライベート・ライアン」はやっぱり巧かったんだなぁ、と改めて実感する。久々にもう一度見返そうかな。

今日の一滴="−−−−" (2006/11/12)

【2006-11-17-金】

恋愛バトン

  1. 今付き合ってる恋人はいますか?

    Yes.

  2. その恋人と付き合ってどれくらい経ちますか?

    何年ぐらいかなぁ。まぁ多分普通の人に較べれば長いのでしょうね。

  3. この恋人と付き合ったキッカケは?

    前々から存在は知ってたけど、ある時偶然手に触れて、惚れ込んでしまったので。

    あと大きな声では言えないけど、他人に取られそうになってたからという要素が無かったと言えば嘘になるかな。

  4. この恋人以外に過去にどれくらい恋人いました?

    4人だか……5人だか。昔の話よ。もう忘れたわ(誰)

  5. 一番長く続いた恋人とはどれくらいですか?それはいつ頃?

    今の恋人ですね。つまり今。

  6. 逆に一番短かった恋人とはどれくらい?

    2週間ぐらい……かなぁ。

    相手の名誉の為に付け加えておくと、決して何かが悪かったとか合わなかったとかではないのです。ただ外的要因で手放さざるを得なくなっただけです。

  7. 恋人を色に例えるなら何色ですか?

    温かみのあるグレー、とか。灰色にいいイメージは無いかも知れないけど、銀鼠という雅な言葉もあるのがこの国の文化。時に白く輝き、時に黒く落ち着いてもみせられる二面性がいいですね。

  8. 恋人との思い出があればどうぞ!

    長年の付き合いだけあって思い出は多いですねー。

    最初の思い出と言えば、彼女と付き合いだしたとき、彼女に合わせるために携帯のキャリアをわざわざ変えた、なんてのも思い出かも。

  9. 浮気願望はある?

    かなり強い気がしますね。

    というか一人でいる寂しさに割りと耐えられない方なので、トラブル等で話せない日々が続いたりすると、ふらふらと気が迷ってしまう傾向がありそう。

  10. 今の恋人に一言!!

    ちょっと失礼な言い方かもしれないけど、本当に「めっけもん」でしたよ!

    Q3でも書いたような偶然からの付き合いだったけど、これほどまでにしっくり来るとは思ってもいませんでしたから。

  11. まわす人

    てけとうにどうぞ。








注】この「恋人」とはもちろん「人間の相方」のことです!!

断じて「携帯電話」などではないのでそのように書いてください!!!!:p

──なんか逆向きのバトンがその辺を流れてたので早速天邪鬼プレイですよ先生。ちなみに補足情報はコメントアウトになど。

今日の一滴="−−−−" (2006/11/17)

【2006-11-18-土】

フェア・ドマ:トラットリアの愉悦

先日金曜、前々から人伝に気になっていたジェノヴァ料理店、フェアドマ@日本橋をようやく探訪。いやー、メリケンの新聞風に書くなら「Two Thumbs Up!」と見出しを付けたいところ。これはエラく満足度の高い店を見つけてしまいましたよ。

リグーリア州、ジェノヴァ。念の為に触れておくと、長靴イタリアの「スネ側」の付け根にある元海洋都市国家、我がヴェネツィアの永遠(にはならなかったがw)のライバルである。リグーリア海を正面に、後背地には山が迫り、おかげでその食も海あり山ありになっているのだろう。ちょっと独特なサルデーニャや、あるいは海鮮豊富な南方、シチリア等を標榜するイタリアンは結構あるけれど、ジェノヴァを掲げる店は珍しく、興味を惹かれていたのだ。

さて、フェアドマはオフィス街のど真ん中にある、本当に小ぢんまりとした店だ。4テーブル程度の小ささ、当然白のテーブルクロス、そして狭さを感じさせない柔らかい灯りが、何処かヴェネツィア辺りのトラットリアを思わせる。もうこの時点で居心地がいい:) そして薄手の紙で作られたメニューや、本日の料理に通常メニューと同じぐらいの数が並ぶ様、オーダーにウェイターが細かく付き合ってくれる辺りなど、リストランテとは一味違う、「食うことが楽しい」という言葉を具現化する「あのトラットリアの空気」が満ち溢れていたのだ。食う前からいやが上にも気分が盛り上がってしまう。

実際に料理が運ばれてきてからも、その気分は最後まで裏切られることはなかった。この日頼んだのは

といったところ(注:正式名称など覚えていないので名前は適当)。ズッパを一応ハーフポーションにしているとは言え、二人で久々の全力投球──アンティパスト、プリモ、セコンドまでを2セットと、大食コンビならではのオーダーである。ちなみにイタリアでこれをやると一つ目のプリモで確実に挫折します。ご注意を。

まず、もうこの最初のトリッパで一気に引き込まれてしまった。トリッパとひき肉の甘みの中に奥深いハーブとスパイスの香りがふっと覗く。「美味しい」ではなく「旨いッ」というタイプ、気取らない、だが優しい味わいのトラットリアメシである。続くラタトゥイユも、咄嗟にひらめいたのは「ジェノヴァ風タコス」という表現だ(笑)。このひよこ豆を摺って焼いたと思われる土台が旨いのなんの。野菜もいちいち旨いのなんの。前菜からしてボリューム面で遠慮がないのも嬉しい限り。

続くパスタ二品。「ジェノヴァ風」と名がつくぐらい定番のバジルペーストのパスタなのだけど、ここで基本の旨さってのを痛感した。今まで自分が食ってきたジェノヴェーゼは何だったのだ、というぐらい。プリプリにしてツルツル、ソースとパスタの組み合わせで「喉越し」から「飲み込んだ後の香り」まで旨い一品。鱈とジャガイモのパスタも如何にも冬らしい優しい味わいで、手打ちらしい円形のパスタをあっという間に平らげる。……この辺、ちとペースが速すぎる気がしなくもない(苦笑)。メインのホウボウのズッパは王道の味。トマトベースのアラ鍋を想像してもらえればいいのだが、魚介に慣れた日本人でも旨いと思える、数少ない海外料理の一つだと思う。そして最後のウズラ。目の前で切り分けてもらったのだけど、出てくるわ出てくるわ丸のままのニンニクが(笑)。小柄でプリプリの肉にしっかりとニンニクの香りが移っていて実に旨い。もちろんニンニクも臭いなど気にせず全部頂く。鳥の脂とニンニクの甘みで至福のひと時だ。

さてさて、一通り食えば後は楽しみの半分、食後酒にチーズ、ドルチェのお時間だ。チーズの選択はある程度お店側に任せたところで、グラッパを飲みたい旨伝えると──オーダーを聞きに来てくれたシェフの顔が途端に輝いたのは気のせいではあるまい。それではとばかりに、テーブルの上にゴトゴトと並ぶわ並ぶわ20本近くのグラッパ。半端ない揃えである。それなりにあちこちでグラッパを飲んでいる如星だけど、それでも見たことのないボトルが半数以上。端から香りを嗅がせてもらい、シェフ自らに嬉しそうに解説してもらう。結果、散々悩んだ末に「また来ればいい」の一言と共に、チョコやナッツのような香ばしさを持つ不思議な香りのグラッパを選択。「Cerequio」という、バローロのグラッパらしい。なお相変わらず写真は酒しかない辺りはご容赦。飯の皿をいちいち撮りながら食うのは性に合わんのです。ノリが崩れるしね。

ゆっくりとグラッパを楽しみつつ、出てきたチーズも標準以上で満足。食後酒で満腹の胃をゆっくりなだめすかし、この後のドルチェに備えるのである(笑)。今回はオレンジとトマト(!)の果肉の入ったタルトと、栗のトスカーナ風クレープを選択。栗のクレープは生地自体からふんわりと栗の香りが漂い、クレープだけを食べても旨い。栗を甘く煮たものは和洋問わずあまり好きではないのだけど(甘露煮や下手なモンブランとかダメ)、こいつは美味しく頂けてしまった。

というわけで、店の雰囲気といい、飾らず、されど繊細な味わいの料理といい、これは実に得難いトラットリアを見つけてしまった。如星が良く日記にも書く横浜のプレチェネッラは、雰囲気面ではトラットリアでも、料理自体はどちらかといえば「洗練さ」を求めたリストランテ寄りなのだが、こちらのフェアドマは料理まで含めてキッチリと「トラットリア」を追い求めている感じだ。それがリストランテより下だ、なんて思ったら大間違いである。何気なく「トラットリアの味」と言ってしまうけど、それは「イタリアそのまま」を具現化する実力に支えられて初めて実現するモノである。がっつり食う。旨い。大満足──この喜びを自然に楽しめる料理屋は、本当に貴重な存在なのだ。食べること自体を楽しめる、真性の旨いものスキーにこそ全力でお勧めしたい名店であった。さて次はいつ行こう:)

ちなみに絶対要予約

今日の一滴="グラッパ:Cerequio (Grappa di Barolo)" (2006/11/18)


 
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