VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.
そういえば実に今更ながら、先週Fate小説「Fate/estate dolce」のWeb版を公開いたしました。
Fate小説のWeb公開はやっと2作目。と言ってもこれの他は初期作品「Fate/daydream」と、最終作品「Hollow/avenge night」だけなんですが。ホロウの方は個人的にもお気に入りの短編が多いので、書籍在庫もないことですしチャキっとWeb化を済ませてしまいたいところですね。書籍としては尺の短さが唯一申し訳なかったところですが、Webで読むにはむしろ向いてるかもしれませんし(苦笑)。ちなみにdaydreamの方は……正直、初めての奈須作品二次創作ということで、こっぱずかしいことこの上ない力入りすぎ作品なんですよねぇ。うう。本当は晒すべきだと分かってるんですが、お蔵入りの可能性が大です。すみません。
そも本題の「Fate/estate dolce」。これも書き上げたFate作品の中ではお気に入りの方で、まぁヴェネツィアという別の偏愛を盛り込んでるので作者が気に入るのも当たり前という気もしますが:) それを差っ引いても、一応凛やイリヤをぐりぐり動かせたこと、切嗣という存在に少しでも近づけたこと、セイバーと士郎の想いを描けたこと──そしてこれらの要素を短い作品の中に、それこそてんこ盛りに詰め込めた辺りは結構満足しています。読者様方からの評判もなかなか良かった作品の一つです、はい。ただまぁ、例によってWeb化すると振り仮名が辛いですね。メイリオフォント辺りで振ると少しは見やすいのか……とも思いつつ。
またどうも重めのネタが好みになりつつある如星、Fate/Zeroも出たことですし、夏コミはFateに戻ろうかなぁ、とも考えてます。ネタが無いわけでもなく、書きそびれたランサー&キャスター話、少々境界を絡めた話などは脳内ストックがあったりします。流石にZeroネタで書くというのは難しそうですが、それでも2巻、3巻の出来次第では考えてもいいかも。恐らくどちらかといえば、切嗣や綺礼の行動・性格づけを頂戴する感じになると思いますけどねー。
そういえば繋がりで。はてなダイアリー、通称はてダを始めてみました。
この本サイト日記に代えようというつもりはさらさらなく、この日記ネタに昇華する以前の呟き、あるいは本当に自分の行動ログをメモしていってます。読み物性はゼロです。多分リアルの如星を知らない方には面白くも何ともないでしょう。ただ、時にそういう「朝飯くうた日記」を書きたくなるのも確かなので。
ちなみに書き出して2週間ほど、やっぱりWebフォームでモノを書くこと、それからはてな自体の重さにはうんざりです。絶対長いモノ、推敲を必要とするネタを書くには向かない場所だなぁ、と実感。
今日の一滴="−−−−" (2007/02/12)
昨夜、酷い頭痛で目が覚める。元々眼精疲労や肩凝りから来る頭痛持ちではあるけれど、寝ていたのに目が覚める程の痛みは滅多に無い。横になっている方が辛い激しい頭痛に吐き気が突き上げる。おまけに普段なら肩を回したり首を揉むことで一瞬でも痛みが和らぐものだが、この時はむしろそうすることで気持ち悪さが増した。1時間ほどのたうってる間に何とか眠れたのだが、朝目を覚ましても変わらぬ痛み。歩くことすら辛い。
風邪にしては熱も無く、相変わらず肩凝り系の痛みとも違う。流石に会社を休んで近所の医者に行ったのだが、もう待合室で周りに心配されるほどの脂汗状態で、順番を飛ばして診察を受けた結果「クモ膜下等脳内出血だったら危ないので救急病院に行け」とのお達し。せいぜい偏頭痛の一種で緩和剤でも貰えばいいかと思っていた身には衝撃の宣告だった。普通脳内出血してたら一晩持たないんではと思いつつも、向こうの担当医を手配して貰い、紹介状を受け取って病院へ。救急外来に行くなんて初めてだったりするわけだが、もう普通の外来と違って受付周辺からして飾るところがなく即医療現場真っ只中、イメージ的には野戦病院(あながち間違ってるメタファーでもないな)であり、正直病院の空気がかなり嫌いなのでソレだけで憂鬱に。
ま、結果から言えば色々反射テストをした上CTまで撮った挙句問題なかったので帰ってきたわけだが。まぁその辺の話ははてな側にもちと書いた。
さておき。救急病院へと運ばれている間、もしかしたら死ぬかもな、とふと思った。別に真剣なモノではなく、どうせ大した事は無いだろうとタカを括った上での考えだが、それでも数時間後には死んでる可能性もあるんだな、という思いが過ぎったのは確かだ。そして、改めて気がついた。まず、俺は死にたいとは絶対に思わない。「めっけもん」の影響もあり、多分俺ほど人生を全力で謳歌している奴も珍しいのではないかと思う。だがその一方で、死にたくないとも一切思ってないことに改めて気づいたのだ。多分今死んだら未練はある、やりたい事もまだまだある、だがそれでも、死ぬならまぁしょうがねえなあという諦観にも似た感覚。いや諦観というより、死ぬ直前まで全力で謳歌している以上、別に何かが未完である事を恐れる必要が無い、というか。故に、多分今の俺にとって死は単なるイベントであって、常にそれを考えたり、恐れたり、あるいは逆に望んだりするようなモノではないという事なのだろう。
何度か日記でも引用している、犬のように生きるということ。それはある時から如星の信条となっている。自分の仕事が無駄であろうとも、未完成に終わろうとも、それを恐れずに、残された時間を、それまでと同じ、自分に合った速度で使っていく心構え
。ちょいと死が自分の鼻先に覗いても、そう考えられている自分にちょっと驚きもした。や、そら如星はチキンなので、死とか苦痛が怖くないわけではないよ。ただしそれは死の過程に対する恐怖であって、多分死というエンドポイントへの恐怖ではないんだろうな。
今日の一滴="ホットミルク ギリシャタイムの蜂蜜入り" (2007/02/13)
というわけで、今年も聖ヴァレンティヌス巡礼祭も本日で終了。とは言え戦利品、もとい供物の摂取はまだもう少し続くんだけどね:)
なお実食レポートは今のところ先日上げたものがほとんどで、その後目ぼしい物は少ない。ただし「ミカエル・アズーズ」がまだ未着手で、これは香油系として期待の掛かるところではある。これについてはまた後日。
とりあえず今年の印象だけど、やはり如星の好みはフランス・イタリア系なんだなと痛感。甘みしっかり、乳脂肪分ぎっちりのベルギー系はどうも相性が悪いようだ。元々ミルクチョコもそんなに好きではないしね。一方のフランス・イタリア系は、やはり全体的に香りの使い方が非常に巧い。この辺は香りの調合の伝統、それを受け入れ楽しむ文化の伝統がなせる技かもしれない。また日本勢もレベル高いなぁと思ったが、いかんせん万人受けを狙いすぎている気配はある。トリュフにしてもガナッシュにしても、香りモノや蒸留酒を使っても無難に収めてしまい、突き抜けるようなインパクトが無いのだ。だからどれもこれも似たり寄ったりにの印象になってしまう。欧州各地で修行し、かの地の香料や、酒をたっぷり使った伝統菓子に触れているはずの日本勢の彼らがその辺を理解してないとも思えないので、この辺は受け手の反応を恐れず、むしろ日本人を教育してやるぐらいの意気込みで頑張って欲しいなぁ。商売としてそれが辛いのは分かるんだけど、それでこそスイーツが子供の間食ではなく、大人の嗜みへと一皮向けていくと思うのですよ。
さて、それらの中でもやはりズバ抜けて旨かったモノをいくつか。
これの優秀さは最後まで揺るがず。先日も書いたけど、これを味わう時は五感全てをこいつに投入したくなる。音楽ですら余計なので止めたくなるほど。例えばスパイス系ショコラの定番たるシナモンなんだけど、香りの効かせ方とカカオ分のバランスはもちろんのこと、一番特徴的なのは、いわゆる粉に挽いたシナモンではなく、あの皮シナモンのほのかな酸味のような甘み、あれが一瞬だけ、本当に一瞬だけ香るのである。何この信じられねえ芸術。文句なしに今年一番の大当たり。
Guido Gobino。イタリア・トリノのショコラティエだ。ヘーゼルナッツを使ったイタリア定番のジャンドゥーヤ(ジャンドゥイオッティ)が中心に据えてあり、ミルクを使わずヘーゼルナッツペーストとカカオだけで作られた「マキシモ」や、プラリネをチョコで挟んだ「クレミーニ」は確かに旨い。が、一番グッと来たのは「チャルディーネ」というヘーゼルナッツを使わない純粋にカカオを味わわせるシリーズ。70 80%の高カカオのコインなんだけど、細かく砕いたカカオがアクセントに練りこまれている。で、これが実に巧い&旨い。普通カカオを味わう事を主眼としたチョコって少し練りが固めで、故に包丁でざくざく刻んだ方が味が良く分かったりするのだけど、このチャルディーネはその砕かれたカカオがエアインのような効果をもたらし、ざくざくと食感が楽しいだけではなく大元のチョコ/カカオの味も良く分かるという作りなのだ。
そういやイタリア系って、ガナッシュとかよりも「純粋にカカオを味わえ」という押し出しのチョコをフランス系よりも多く出している気がする。素材勝負というか、素材に僅かに加えられた手の絶妙さ勝負というか。アメディもそんな感じだし、去年のルカ・マンノーリの板チョコ系列もそうだ。しかし惜しむらくは、イタリア系って日本にあまり出店してないのよねぇ……。
ショコラ部門でこれを掲げるのは少しジャンル違いかもしれないけど、今回は敢えてここを提示しておく。HIGASHIYAは本来和菓子屋で、今回出していたチョコレート系は常設商品ではない。が、それにしたって先日書いた「薄氷」、寒天の表面を半透明の砂糖で覆い、上辺を薄いミントチョコレートで張った作品の出来栄えは素晴らしかった。氷のような見た目の美しさ、ぱりっと抵抗があった後に寒天にスッと入っていく食感、外観に相応しく漂うミントの冷たさ、氷のように解けて消える甘味。見て、触れて、聴いて、嗅いで、味わうという五感全てに訴えかける
、和風チョコレートではなく断固とした和菓子なのである。これ年中売ってたら確実に買いに行くのになぁ。
今日の一滴="−−−−" (2007/02/14)
Kanon19〜20話、原作でいうあゆ編のイントロから一気に最初の破断まで。相変わらず各シーンの描き方の巧さには文句の付けようもないんだけど、一つの物語として見てしまうとやはり違和感があるなぁ。ちょうど前回書いた「恋愛の匂いの無さ」を裏返しにした印象を受けてしまう。ここまで各ヒロインへの干渉を恋愛感情抜きでやってきたのに、突然あゆへの干渉だけは恋愛感情つき……というより、いきなり恋愛感情「から」スタートしている、そこに感じる唐突感が拭えない。ま、元々原作においてもあゆ編だけは「全ての根源に遡る道」なので、それこそ恋愛感情のような強い思い入れが無ければ到底干渉し得ない存在ではある。そこを捻じ曲げるわけには行かないって事なんだろうけど……。いかん、同じく恋愛感情無しには成立し得ない栞編は易々と捻じ曲げたじゃん、とか駄々を捏ねたいだけかもしれん。
それに栞派(……だったのか、俺)という視点から見ると、少々許しがたい展開でもある。原作の場合、あゆと祐一が無意識下の感情を共有する瞬間を繋いだ「別離の無力感」は共通の一連の原体験(別れから別れを繋いだ数日間)から派生しているのだけど、アニメ版ではなんか祐一君真琴も舞も栞も脳裏に浮かべておるのですよ。最後に一瞬だけフラッシュバックのように赤い血の記憶が蘇るけど、口から零れ出るのは栞の名前。──こいつ、哀れみだけで干渉した女の記憶を自分の恋愛感情の焚き付けにしやがった。それがあの瞬間に如星に湧いた素直な感情だ。各ヒロイン編を「あれはあれ、それはそれ」と分離して処理していくだけだったら問題無かったんだけど、こうやって連続性を作り手が描いてしまった以上、受け手も全編を連続した物と捉えてしまうのは当然のこと。18話で感じたアニメ版祐一の嘘臭さが、ここに再来してしまったのだ。うーん。
少なくとも、アニメ版はゲーム版とは異なる祐一を描いていくようではある(そうでなかったら困る)。さて、とすればそろそろこれが気になってくる頃だ。“Where are you leading us to?” あっさり脇にどけられた名雪はちと哀れだが(もし何の伏線でも無いとしたら、あのマラソンシーンの無意味さは哀れとしか言いようが無い)、それ以外の物語はどうなるんだろう。普通にあゆエンドをなぞるだけ? 真琴は還らず、舞と佐祐理の世界にはもう干渉せず、栞はこの世から消え──というように他ヒロインを忘れ去ってくれるならまったくそれでも良いと思うんだけど、今回焚き付けで使ったこと、そして途中のシーンで「栞の容態は安定している」などと、すっげえ中途半端で余計な茶々が加えられてる辺りを見ると、妙な不安が募ってくる。やだなあ、繰り返しになるけど、個々のシーンは本当に巧いのよね。原作と違ってあゆは電波性の少ない普通にかわうい真人間として描かれてるので、その彼女との初々しいラヴシチュは素直に見てて身を捩るこっ恥ずかしさがあるし、その微妙な空気の変化を読み取る名雪と秋子さんの描写も絶妙。第17話OP前の極短いあゆとのワンシーンには、神域の魂を感じたものだし。やだなあ(echo)、その美しい品質の積み重ねが、物語に繋がらなかったら。ドキドキしながら次を待つとしよう。
それはさておき、以前は意識してなかったけど、この「幻想と歪みの源に本人が辿りつく」って構図は本当にホロウのトーンと似てるんだなぁ。ちょっとホロウ調のKanonオリジナルエンド、みたいな短編を書いてみたくなったり。
いやもうだからホントに。超真人間モードのあゆはかわういよ。短編書きたくなるぐらい。ホントに。
今日の一滴="−−−−" (2007/02/16)
何か一つ質問すると、うじゃらっと本人の知ってる事の限りを並べ立てようとする人種がいるのだが、その何が問題かって、千言を尽くした後に質問に答えていないことがままあるってトコなのだ。例え答えが含まれていたとしても、一体何処が答えだったのか質問側が探さなきゃいけない場合も多いし。一体何故そうなるのか。
ちなみに「質問の意味が分かってない」はオレオレ型に含む。分かってないのに語ろうとしているということだから。
ま、これは質問への解答に限らず、話が長いといわれる人種、話を途中で遮って「で、要するに何」と聞き返したくなるタイプと結構重なっているのだろう。彼らは別に台詞自体の長さが問題なのではなく、話の論点も着地点も一向に見せないまま喋り続けるのが嫌われるわけで、それは「質問への答えという論点」をすっぽ抜かすのと同義だからね。しかし一方で単に話が長いタイプではなく、明確に答えを知らない事を自覚しているのに、それを誤魔化すために、あるいは自分の威厳を保つために延々と知ったか(そしてずれている)を並べ立てる類の奴がオレオレ型IIだ。こっちの手に負えなさは無自覚型の比ではない。
いずれにせよ、コイツ人の話聞かない質問に答えない、と嘆いて済む話ならいいけど、仕事上の付き合い等スルーする訳には行かないことも多い。そいつらを端から教育して回る事が出来ない以上、結局のところ、馬鹿から自分の聞きたいことを効率よく聞き出すスキルを身に付けるしかないのだろう。このスキルはあらゆるシーンで生きてくるのが現実なので、例えば「答えになってないぞアホ」という心の声を社会人的オブラートに包んだフレーズをキチンと弾倉に用意しておき、いつでも適切に相手を遮って撃ち込めるようにしておく等、日頃から対策を考えておいたほうが良いですぞ、マジで。
しかしまぁ余談ではあるが、オレオレ型ってのはある意味オタク型なのよね。下手に自分の得意(と思っている)分野に当たったときのオタクというか。本人は善意で「余の知識の全てをくれてやろう」という気概に溢れたりするのかもしれないけど、端的に聞きたいことがある側には果てしなく迷惑なだけである。……うん、俺の場合蒸留酒ネタでちょっとそういう傾向はあるかもしれんので気をつけよう。
そして更に余談になるが、このオレオレ型は強まってくると「パネルディスカッションのQAや他人の日記のコメントで演説を始めるタイプ」にもかなり近くなってくる。あらゆる機会を「自分の脳内を他人に語って聞かせる場」としてしか認識できない最悪の人種である。もうここまで行くと正面から成敗するか遁走するしかない。いやっふー。
今日の一滴="−−−−" (2007/02/17)