VERBA VOLANT, SCRIPTA MANENT.

如星的茶葉暮らし

■ 03月中旬 ■

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酒の一滴は血の一滴。茶の一滴は心の一滴。ネタの一滴は人生の発露。


 

【2007-03-16-金】

とおくとおく離れていても

午前5時30分。計ったかのように目が覚めた。

まどろみが続くでもなく、遅刻した時みたいに跳ね起きるでもなく、むくりと身体を起こすと布団がかさりと鳴る。小さな窓の外はまだ闇夜。夜明け前の瑠璃色の空ですら、まだあと何分かは地平線の彼方だ。

ボクは無言のままベッドから出て、作り付けの洗面台で顔を洗う。そりゃ誰もいないんだから無言なのは当たり前だけど、夜明け前の町はあまりにも静かで、冷たい水の迸る音、タオルの衣擦れ、首を通したシャツが髪をこする音、板張りの床をとすとすと歩くボクの足音、それら全てがとても場違いに思えて、ボクはことさらに黙々と身支度を済ませていく。

まるで世界でボクだけが目を覚ましているような気分。いや、それはある意味明日からのボクそのものだ。

身支度とは言っても、本格的な荷造りは昨日のうちに済ませてある。ベッドの脇には荷物を詰めた大きなボストンバッグ、机の椅子に引っ掛けた今日の服。ベッドの布団を軽く直し、髪を手早く整え、冷たい空気の中で全てを身に纏うと、ボクはすっかり慣れ親しんだ屋根裏部屋に最後の一瞥をくれてやった。

数ヶ月ぶりにきれいさっぱりとした机の上には、借りっ放しだった分厚い本が目立つように置いてある。お気に入りのオレンジのニットは枕元に置いていけば妹が使うだろう。まだ死んだように眠っている金魚鉢の魚は───と思い至って、ボクは慌てて鉛筆を取って机のメモに走り書く。

我ながら汚い字で四言、「魚の餌はfeed fishies一日二回twice a day.」。

……そのメモを金魚鉢の手前に挟んでしまうと、困った事に、もう本当にやる事がなくなってしまった。ボクは仕方なく、何かを探すようにもう一度部屋を見渡してみた。ふと気がつけば、小さな窓には闇夜を払う最初の群青の光がようやく映り始めている。狭くて、立て付けが悪くて、ガラスが汚いとこぼしていたその窓ですら、何だか妙にいとおしい。──ああ、自分は長居し過ぎたのだと改めて悟った。この数ヶ月間、この薄暗い屋根裏部屋は本当に居心地のいい場所だった。日溜りの中に忘れられたようなこの町は余りに温かく、なんだかボクはずっとここで生きていけるような、そんな錯覚を持ってしまってたのだ。

だから、昨日までは踏ん切りがつかなかった。明日になれば、ボクは二度とこの町を離れられない。そう、だからこそ、今日がその時だった。一人で勝手に決めたことを、妹も、おばさんも、この町で出会った幾人もの大好きな人たちはみんな怒るだろうけど、ボクはただ心の中でごめんと言うしかなかったんだ。

僅かの間、目蓋を閉じる。もうしばらくすれば教会の鐘が鳴り、階下でおばさんたちの一日が動き出す。ほら、耳を澄ませば、始発の汽車の汽笛の音が、遠くかすかに聞こえてくる。もう、行かなくては。

 

かばんを背負い、踵を返し、静かに扉を押し開ける。

みんな元気で。ごきげんよう、さようなら。それから───よい終末をhave a nice w/end

 

3月16日 サウスウィッシュボーン 3番地

dedicated to: 坂本真綾「おきてがみ」

今日の一滴="−−−−" (2007/03/16)

【2007-03-18-日】

サイカイ

というわけで、書き物再開。先日の真綾ネタを形にできたのでだいぶ吹っ切れましたね。

オルタマップ作り

【1998年のBETA日本侵攻に関する若干の考察】画像を付けてみました。

と言うより、このオルタ風マップのテンプレ作りが完了したので、試しに日本侵攻のマップを作ってみたというのが正解です。こういうそっくりモノ作りは大好きなもんで、だいぶ作品中のイメージに近づけられたのではと自負してます。ともあれ日本全土のベクターデータが描けたので、これで日本中どこへでもBETAを侵攻させられますよ:) やっぱりこの手の話は、小説の字面だけでは理解しづらいですからねー。特に地名などを使うと文章上は楽になるんですが「渥美半島って何処やねん」ということになりますし。

また誤解無きよう、以前も書きましたが、こんなんを書いていても如星は別に軍オタではなく、軍事知識もかなり怪しいモンです。この手のネタに私の小説に対する以外の資料的価値は無いのでご留意を。とは言え、物書きなら誰だってアサルトライフルで狙撃などしたくないモノで、あからさまにおかしい部分は容赦なくご指摘くださいませ。

ちなみに今密かに戦術機・Su-32Aプラティパスを某氏にデザインしてもらってたりして。トータル・イクリプスに登場するSu-37チェルミナートル辺りを参考にしてるんですが、いざ手を加えようと思うと実に良く出来ていて、逆になかなかいじれる部分が少ない。メカニックデザインは流石いい仕事してますね。

須賀敦子のヴェネツィア:心情的ヴェネツィア論

「須賀敦子のヴェネツィア」を読了。ヴェネツィアの匂い立つ、素晴らしい一冊であった。

「須賀敦子」と銘打ってあるが、彼女の著書ではない。イタリア文学者にして作家、そしてキリスト教徒たる彼女の足跡を、彼女の過ごした街ごとに写真と文章で追うというシリーズらしい。が、この如星も彼女の作品は一冊しか読んだことはないし、このヴェネツィア本を堪能するには、別段彼女を知らなくても良いと思う。それは別に須賀敦子という存在が不要というわけではない。殊更に彼女に焦点を当てず、むしろ街の描写を主体としたこの本の文章と写真の中から、自然と一人の人生が浮かんでくる感じだ。そしてその人生は、ヴェネツィアという街の持つ影の匂いととてもよく似ている。

例えば、石造りというキーワード。ヴェネツィアは決して運河の流れる綺麗な街といった風情ではなく、海に石塊を打ち立て、石によって潮と戦っている街である。そこがヴェネツィアの美しさでもあり、同時に誕生した瞬間から常に滅びと戦っているという哀しみでもある。かつて栄華を極めた証である見事な教会群があると思えば、ラグーナの外れにはここが決して都市ではなかった証とも言える鄙びた自然が広がっている。ヴェネツィアとは常に、そんな表と裏という存在を何処か意識させられる街なのだ。一人の文学者が歩んだ道を追うことで、そんな光と影の双方を、ゆっくりとしたスピードで味わえるように本書は作られている。如星が「歴史」を踏まえて感じるような深みを、須賀敦子は、そして本書の著者は、街という存在そのものから感じているようだ。

繰り返そう、ヴェネツィアという街にさえ興味があれば、この本はヴェネツィアの「内側からの魅力」を感じられるお勧めの一冊だ。例えば、最近よくヴェネツィア入門編の役割を果たしているARIA辺りでこの街の魅力を感じ始めた人などにも最適だと思う。観光ガイドのような表の目立つ顔ではなく、それでいてなお美しいヴェネツィアの表情。潮が洗う玄関、開放的な河岸、迷路の奥底から見える空、海から直接建つガラス工房、リド島の自然、白亜の教会、延々と続く太鼓橋、石の哀しみを代表するかのようなゲットー。それらをただ紹介するのではなく、それを眼前にした「人間」が何を想うのかに焦点が当てられた稀有な一冊である。そこに住み、そこを歩いた人間の視点からの言葉と写真──それは何処か、ARIAによるヴェネツィアのメンタル的な描き方に通じてると思うのだ。

今日の一滴="−−−−" (2007/03/18)

【2007-03-19-月】

スタンス・アップ

警句は受け止めなければ只の語録に過ぎないが、時に寸鉄となってダレた心を討つ。

自分が評価されないのは、単に自分の技能が低いからと知れ。
舌先三寸のコミュニケーション能力で本を売るような人間になるな。
小説を書かない人間からの褒め言葉を信頼するな。
好きなことを書かなければ、全く誰にも読まれない物書きだけが、好きなことを書け。
人の本を褒めてる暇があったら自分で何か書け。

──詠み人知らず(少し改変)

元はhalt先生のところのコードの話なのだが、何処に持っていっても通じる「寸鉄」であろう。まったく、他人の自分への批評を聞くだけで何か書けた気分になり、他人への批評をするだけで何か書いてる気分になってしまうのが一番不味い。自己分析も書くだけなら同レベルだ。

今日の一滴="−−−−" (2007/03/19)


 
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